真夏の日差しが照りつけるマンション・コンフォート17。 冷房のきいたリビングで、シンジはテーブルの前にあぐらをかいて座っている。しかも、珍しくテレビを背に向けて。 その姿はセカンドインパクト前によく見られた光景、そう「夏休みの宿題に追われている中学生」そのものだ。ところせましと様々な教科書・テキスト・ノートがテーブルの上に展開され、それを前にした少年はさっきから頭を抱えながら考え込んでいる。 もうお昼近くだというのに、いまだ葛城家の女性達は起きてくるようすがない。まあ、だからこそ、シンジはリビングで勉強できてるようなものなのだが。 「ん〜〜っと」 一段落ついたのか、それとも考えることを一時放棄したのか。シンジは一つ伸びをすると台所へと向かった。 よく冷えた麦茶とグラスを持って、今日の定位置と決めたテーブルまで戻った時、ちょうどアスカが起きだしてきた。 「おはよ」 「おはよう、惣流」 「アスカ」 「おはよう、アスカ」 すかさず言い直しを要求された。 微苦笑とともにあらためて朝の挨拶を交わすシンジ。 ただ、さっきよりちょっと声が小さくなったりしている。 まだ慣れないでいる。意識していないと思わず「惣流」と言ってしまうのだ。 意識すればしたで、照れくさくて声が小さくなってしまう。 いいかげん慣れてもいいものだと我ながら思うシンジなのだが、こればっかりはどうしようもない。 「なにしてんの? 日曜の朝っぱらから?」 「見ての通り、テスト勉強」 「ふーん」 なんとなく怒っているようなアスカをあまり刺激しないように注意しながら、再び無造作に置かれた勉強道具たちの前に腰を下ろす。 あまり時間はない。 衛星軌道から自由落下してくる、などという非常識な使徒が襲来したおかげ(?)で、おととい行われるはずの小テストが明日に延びた。前回の中間テストはあきらめてしまったが、今回もあきらめるというワケにはいかないのだ。 麦茶を一杯飲みほし、さてとばかりに理科の教科書を開く。ページをめくり出題範囲までたどりつくと、一字一句逃すまいと活字を目で追い始めた。 一気に2、3ページほど読み進めた頃、すぐ横に「漢字ドリル―小学5年生―」と銘うたれたテキストが放り投げるように置かれた。そして、その前にアスカがストンと腰をおろす。 「どうしたの?」 「アタシも勉強。悪い?」 「いや、悪くはないけど‥‥‥お腹空いてないの?」 「もうすぐお昼でしょ。ガマンする」 「そう?」 「そ」 相変わらずぶっきらぼう、かつ、不機嫌な様子。しかし、いつものようなワガママなアスカはまったく顔を見せない。 いつもこうならいいんだけど、眉をひそめながら練習問題をこなしているアスカの横顔をちらっと見ながら、シンジはそう思う。 のんびりとそんなことを考えながら、そこはかとない不安を感じているのも事実。 そしてその予感はすぐに的中した。 「ねえシンジ、これなんて読むの?」 「えっと、これはね‥‥‥」 シンジは心の中で苦笑しつつ、傍らに広げられている漢字ドリルをのぞき込む。 こうなることは予測できていた。 最近、アスカはわからない漢字があるとシンジに聞いてくることが多い。 大抵のことは自分で調べてしまうアスカであるのだが、漢字の読みを知らなければ辞書を引くのは大変な作業だ。以前シンジがパソコンで調べれば、と言ったが『パソコンなんかで調べても身につかないモンなのよ、バ〜カ』と辛辣に切り返された。 それ以来、アスカの問いにはすぐに答えるようにしているのだ。今日に限っては勉強がはかどらないこと、はなはだしいが。 「『しぐれ』って読むんだ」 「ふ〜ん、どうして『時』と『雨』なのに『しぐれ』って読むの?」 「えええ‥‥‥っと、わかんないや‥‥‥後で辞書で調べてみて」 「わかった」 ふと、シンジの頭の中に疑問がよぎった。アスカは話すのはペラペラなのに、どうして読み書きは小学生並みなのだろうか、と。来日してたった1ヶ月ちょっとで、もう5年生レベルの漢字まで身につけたのはさすがなのだが。 とりあえず、といった感じでその疑問を口にしてみる。 「ねえ、アスカ。アスカって日本語話すのすごく上手なのに、なんで読み書きは苦手なの?」 弾けるように顔を上げたアスカは驚いたようにシンジを見つめている。 そんなアスカを、シンジも不思議そうに見つめかえす。 ややあって、アスカの視線がテーブルの上へと落ちていった。そして、誰にともなくつぶやくように話し始める。 「ドイツにいたときも‥‥‥前の家にいたときも、よく日本語で会話してたから‥‥‥それに日本のドラマとか映画も結構見てたし」 「家にいたときに?」 「そ、義理の両親とだけど‥‥‥気を利かせたつもりなのかわかんないけど、わざわざ日本語で会話するの、あの人たち」 「‥‥‥‥‥‥」 「日本語なんてわざわざ勉強しなかったし、したくもなかったから‥‥‥だから読み書きは全然ダメ」 あの人たち。 その言葉がシンジの胸をしめつけ苦い思いを絞り出す。だが、アスカも同じなのだとわかった。『エヴァに乗ってみんなに認められれば幸せ』そう言ったときと同じ横顔が目の前にあったから。 「‥‥‥‥‥‥」 「‥‥‥‥‥‥」 お互い、口を開くことができなかった。 二人ともまるで自分の居場所を見失ったかのように視線をさまよわせるだけ。 「べっつに感謝してないわけじゃないんだけどね〜。いちおー、今まで育ててくれたわけだし」 努めて明るく軽い口調は、わずかに語尾が震えている。 「‥‥‥なんでこんなことあんたに語っちゃってんのかな、あたし」 唇だけがつり上がったような笑みが浮かぶが、しかし、その笑みはすぐに消えていく。 エアコンが効いているはずのリビングの空気は、重苦しい。 再び気まずい沈黙が二人をつつむかと思われた矢先、シンジがゆっくりと口を開いた。 「‥‥‥わかるよ。僕も同じだったから」 つぶやくようにそう言ってシンジがゆっくりと顔を上げると、同じように顔を上げたアスカと目が合った。 その蒼い瞳には、今まで見たことのない光がたたえられている。 引き込まれそうな、それでいて暖かさにあふれた輝き。 「なんか調子狂うのよね、あんたにそーゆーこと言われると」 「なんだよそれ」 「そのまんまっ!」 目を細めて優しい笑みを浮かべているアスカに、シンジは思わず声を失ってしまった。 血液が顔に集まっていくのを自覚しながらも視線を逸らすことができない。 そんなシンジをからかいもせずに、変わらぬ笑顔を向けているアスカ。 いつしかシンジも、つられるように微笑みを浮かべていた。 エアコンの軽い唸りが響く中、ただただ、時間が流れていく。 「「あ」」 無言で微笑みながら見つめ合っている、というかなり恥ずかしいシチュエーションにようやく気が付いたのか、二人同時に小さく声を上げ真っ赤になってうつむいてしまった。 「な、なに、黙っちゃってんのよ」 「ア、アスカこそ」 今度は、お互い何かを探すように目を泳がせている。 しばらくきょときょとしていたアスカの視線がシンジの手の辺りで止まった。 「さ、さっきからどこでつまづいてんのよ! ほら、見せてみなさいよ!」 「‥‥‥なに言ってんだよ、自分が邪魔したくせに」 「あいっかわらずナマイキね。いいから! さっさとみせる!」 「わ、わかったよ」 ‥‥‥顔を赤らめながらこんなやりとりをしても、説得力がないばかりか、かなり恥ずかしいということに彼らは気付いているのだろうか? しぶしぶとシンジが差し出した理科の教科書をアスカがのぞき込む。 「熱膨張〜、こんなとこでつまづいてんの〜、バーカバーカ」 「わ、わからないわけじゃないよ! アスカが読んでる途中に邪魔したんじゃ‥‥‥」 「物質は温度が高くなれば膨張して、低くなれば収縮する。要はそういうことよ」 言い返すシンジをあっさり無視して解説を続けるアスカ。 どうやらいつもの調子に戻ってきたようだ。シンジも、そしてアスカも。 二人の間にほっとしたような空気が流れる。 と、突然、アスカの顔にいたずらっ子そのものの笑顔が浮かんだ。 アスカと出会ってから何度目かわからない「やな予感」がシンジの背筋を走り抜ける。 「あたしの場合、胸だけあっためれば、少しはオッパイが大きくなるのかなあ?」 「‥‥‥日本に来てから少しは大きくなったんじゃない? 寒かったんだろ、ドイツは」 これみよがしに、タンクトップ越しに胸を持ち上げていたアスカの両手がピタッと止まる。 あらかじめからかわれることがわかっていれば、これくらいのことは言えるのだ、シンジは。相変わらず顔は赤いままではあるが。 しかし今回は、いや今回も、アスカのプライドを傷つけるには十分だったようである。 「‥‥‥言ったわね‥‥‥じゃあなに? あたしの胸は成長してないとでもいいたいわけ?」 「自分で言ったんだろ」 「‥‥‥‥‥‥」 「な、なんだよ」 「‥‥‥ユルサナイ。ゼッタイ」 呪いの言葉を吐くようにそうつぶやいて静かに立ち上がると、シンジの首ねっこをつかんでものすごい力で引っぱりだした。 「な、なにすんだよ!」 「‥‥‥ウルサイ」 「ど、ど、どこ行くつもりだよ!」 「‥‥‥お風呂場」 「な、なんで?」 ずるずると引きずられていくシンジの声がだんだんと情けないものへと変わっていく。 「実際に! あっためてみて! 計ってみれば! わかるでしょ!」 そう一言一言どなるように吐き捨て、さらにシンジを引きずっていく。 『ミサトやファーストを見返してやるんだからね』ユニゾン特訓の時のアスカの言葉が後悔とともにシンジの頭の中をぐるぐると駆けめぐる。 「実際に計るって‥‥‥ボ、ボクが!?」 「あったりまえでしょ!」 「じ、自分でなに言ってんのかわかってんのかよ!」 「るっさい! ジタバタするな!」 「な〜によ〜、朝っぱらからうるわいわね〜。あ〜頭イテ‥‥‥」 シンジがリビングから引きずりだされるかという時に、二日酔いの頭を押さえながらようやくミサトが起き出してきた。どうやら昨日は戦勝祝いと称してずいぶんと遅くまで呑んでいたようだ。修羅場の二人を目の当たりにしても、ふらふらと足元と視線とをふらつかせている。おまけに着替えもせずに寝たのかタンクトップもよれよれだ。 だが、今のシンジにはこんな酔いどれ天使が救いの女神に見えた、らしい。 「ミ、ミサトさん! なんとかして下さい! ア、アスカが‥‥‥」 「ミサトは関係ないでしょ! バカ!」 「あー、二人とも仲がいいのはわかったから、もうちょっと静かにしてくれない?」 「お願いです。タスケテ‥‥‥」 「うー、むかえ酒むかえ酒」 所詮は酔いどれ天使。 ミサトはふらふらしながらも、器用にアスカとシンジをよけて台所へ歩いていってしまった。 シンジには、血の気が引いた顔でその後ろ姿を見送ることしかできなかった。 「覚悟はいいわね」 「ね、ねぇ、アスカ? か、考え直さない?」 シンジの弱々しい最後の抵抗も、壮絶な笑みの前では国連軍ほどにも役に立たない。 そして無言のまま、シンジの姿はバスルームへと消えていった。無論、アスカに引きずられたまま。 |
「ビール、ビール」 身も蓋もないことを口にしながら、ミサトは冷蔵庫の奥にしまっておいた緊急用のエビチュを1本取り出した。 椅子にこしかけ、缶のプルトップを引き上げると小気味よいと同時に、豊潤な麦芽の香りが漂う。 そして、同時にバスルームから響き渡る声。 『わー! やっぱダメー!!』 『こらぁ! 逃げるなー!』 『ア、アスカが、自分で計ればいいだろ!』 『この期に及んで何言ってんのよ! それでもあんたオトコ!?』 『それとこれとは話しが‥‥‥って、わー!! やめろー!! 脱ぐなー!!!』 「へーわねぇ」 しみじみと一人つぶやき、缶の中身を一気にあおる。 「思ったより仲良くやってるみたいだし。ま、とりあえずはうまくやっていけるってことかな」 ずいぶんと軽くなった缶をプラプラさせるミサトの顔には、穏やかな、はにかむような笑顔が浮かんでいた。 バスルームからの喧騒は、しばらくは続きそうだった。 < FIN >
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