サードインパクトは、エヴァ初号機すら消滅せしめた。 ただ一人生き残るはずの人類も、最後のエヴァと共に消えた。 人々の想いは一つの巨大な水溜まりに姿を変え、全ての生物が 生命としてのカタチを失い、その山吹色の液体へと合流した。 今はあらゆる命を飲み込んだ大海が、 ただ静かにこの星の表面を覆っている。 人類に最期の時を刻んだ女神すら純白の骸となって崩れ落ち、 荒涼とした大地に動くモノの影は見当たらない。 全てを無に帰すというSEELEの野望が、ついに成就したのだった。 この星の歴史は既に幕を下ろしていた。 ただ一つ、小さな「誤算」だけを残して……。 |
write by けんけんZ
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山吹色の潮が打ち寄せる不毛の大地に、一人、少女が佇む。 頭上を覆う天球は色を失い、燦然と輝く太陽と漆黒の闇が同居している。 赤茶けた地面は、文明の残した痕跡がすべて塵と錆に帰した証しだ。 墓標のように、人類がその最期の時に打ち建てた建造物が、残骸となりながらもわずかに形を残す。 そして遠く天に聳えるのは、倒れた女神が象る純白の山脈。 そよぐ風すらも、其処には無かった。 静かに打ち寄せる潮の音が、少女の耳にかすかに届く。 目を瞑り、その潮騒にだけ意識の焦点を合わせれば、まだこの星が息づいていた頃を思い返す事が出来ただろう。 現実には、目に映る景色も、大気に満ちる匂いも、地獄とでも言われた方が遥かに理解し易い事象に満ちている。 もはや此処は、かつての人類が知る「地球」では無い。 ゆっくりと、水と風と、酸素だけが仕事をしていた。 すべては風化して砂塵と化し、あらゆるモノが錆付いてこの星の歴史は静かに忘れ去られるだろう。 少女に嘆く暇は無かった。 薄く脆くなった大気を悠々と通り抜け、強烈な紫外線が皮膚を焼いている。 事態を把握できずしばし呆然と佇んでいたが、突き刺す日光の痛みに日陰を目指して波打ち際を離れ、かつて人が「街」と呼んだであろう場所に向けて歩き出す。 地面は何処も頼りなく脆く、錆びたような赤い砂塵に点々と自分の足跡だけが記される。 距離感を失った風景だけが延々と続く。 山脈は崩れ大河は干上がり、大地を覆う緑は少しばかりも残ってはいない。 苔も草も花も樹も、倒れるでもなく朽ちるでもなく、ただ奇麗に消え去っていた。 そして、一匹の羽虫すら、見つける事が出来ない。 生けとし生けるものが姿を消してしまった世界。 少女は、まるで無人の国の女王だった。 |
日が中天に昇る頃、ようやくかろうじて姿をとどめた街に辿り着く。 だが家屋は言うに及ばず、ビルも高架もトンネルも、既にその役目を終え大半が塵芥へと姿を変えていた。 僅かに残った道路の擁壁が、アスファルトに影を落とす。 日陰になった側溝の蓋の上に少女は静かに身を横たえ、焼け付く日差しからようやく解放されてほっと息をつく。 だが、日陰に入ると今度は寒さを感じる。 陽光を散乱させる大気中の微粒子が無いため、日の当たる場所と日陰の温度差が大きいのだと気付く。 だとすれば、夜は、恐るべきモノとして猛威を振るうだろう。 取り残された、この弱々しい肉体が彼女に残された全てだと言うのに。 夜が訪れる前に寒さと闘う準備をしなければ、明日の朝日は拝めまい。 少女は頼りなく薄い着衣一枚しか身に付けていなかった。 他に有るものと言えば、腕に巻かれた包帯だけ。 ためらう事無く腕に巻かれた包帯を解く。 その下の皮膚も着衣も、傷付いてはいなかった。 砕け散ったカーブミラーの残骸に顔を映しながら、解いた包帯を頭に巻く。 こんな薄い布一枚、どれほどの効果があるか知れないが、何も無いよりはマシだ。 現に、鏡に映った顔は火傷したように赤く腫れ上がり始めていた。 幸い爪先から首までは、着衣が紫外線を遮ってくれる。 目と鼻孔を残してきっちり顔面を包帯で覆い隠すと、少女は再び陽射しの中にその身を晒す。 まず、暖を取るための手段を探さなければならない。 街の中心で、目指すものを見つけた。 大きく傾いだデパートの残骸に入り込み、使えそうなものをかき集める。 まずは服や寝具を確保した。 次に薬や怪我の手当てをするための医療品を揃える。 最期は食料だ。地下の食品売り場は潰れて入れなかったが、贈答品の缶詰や加工食品の詰め合わせは、幸い売り場が違って無事だった。 缶入りや瓶入りの飲料もまとめて何日分も確保する。 使えそうなものは沢山見つける事が出来たが、一度に運ぶ事は出来ない。 この場所で寝起きする事も考えたが、大きく傾いだ建物の中に居て安眠出来るとは思えなかった。 仕方なく、それらの物資を建物の入り口まで運んで、移動の手段を確保するため幹線道路の跡を辿って歩いた。 少女の判断通り、自動車のショールームが無事に残っているのが見つかった。 家族連れの映った大きなポスターが、窓を蹴破る少女に無意味に笑いかけている。 うっすら埃が積もってはいるが、無傷な車が何台も並んでいた。 燃料の残りを確認して、一番小回りが利きそうな四輪駆動車に決めた。 だが残念ながらカギが付いていなかった。 ボンネットを開けて、少しも痛んでいない機械を眺めて悔しそうに舌打ちする。 全ての物が、彼女に使われなければ意味無く朽ちていくだけ。 世界中のあらゆる文明の名残が彼女を待っている。 なぜなら彼女が、この世界の女王なのだから。 機転を利かせた少女は、裏の整備場に燃料をたっぷり積んだ新車を見つけた。 オドメーターがまるで進んでいない所をみると、納車整備の最中だったのだろう。 ショールームで良さそうだと思った四輪駆動車の色違いが有った。 挿さっていたキーを捻れば、即座に全てのインジケーターが点灯する。 水素から電気を起こす燃料電池車だったので、エンジン音が無いのが残念だ。 そのまま走り出そうとすると、警告音が鳴ってブレーキが掛かる。 舌足らずな合成音が「シートベルトを絞めて下さい」と繰り返す。 久しぶりに、文明の音を聞いた気がした。 改めて走り出してすぐに、深く考えもせずダッシュボードのスイッチを捻ってみた。 ラヂオのスイッチだったのだが、何も聞こえては来ない。 人が残っていないのに続いているラヂオ局がある筈も無いのだ。 少し悲しくなり、車の運転の練習も兼ねて、CDショップを探して街中をぐるぐると走ってみる。 あっけないほどすぐに目指す店は見つかり、両手一杯のCDを車に積み込んだ。 選ぶのももどかしく包装を破ってデッキにディスクをほうり込み、自分以外の人の声をようやく聞く事が出来た。 しかし、ただ空しさと寂しさが募っただけだった。 クラッシックだけ残して、流行りの歌は全部捨てた。 ガススタンドで予備のボンベを車に積み込み、非常用に電動スクーターを一台確保する。 絶対に使われる事の無い助手席を取り外してデパートに戻り、様々な物資を積み込んだ車は、よたよたと荒れた道路を走り出す。 何処に向かおうかと、走り出してから考える。 何処へ行っても同じだと気付くまでに、大して時間は掛からなかった。 それでも少女は走り続けた。 安住の地が見つかるまで、車の中で寝起きすれば良い。 白い女神の残骸が見えなくなるまで、野を越え山を越え、走り続けた。 |
少女が意識を取り戻したのは、慣れ親しんだ箱根に程近い波打ち際だったように思われる。 南西に、伊豆半島の向こうの太平洋に、女神の崩れた顔があった。 その顔を見ないで過ごすためには、山中に残った道路の痕跡を辿り、長野まで走らなければならなかった。 恐ろしい夜が三たび、何事もなく過ぎて、かつてこの国の首都が置かれていた街に辿り着く。 減ってしまった食料と飲料を確保しようと思ったが、その前に、懸念していた事を確認するため病院へと向かった。 市内でもっとも大きな病院は、巨大で頑丈な建物が幸いして原形をとどめていた。 死体安置所、処置室、病理学実験室といくつもの部屋をこじ開け、あらゆる手がかりを探して回った。 結局、標本になっているものを除けば、死体は一つも見かけない。 外に出てなるべく汚そうな水溜まりの水をビーカーに汲み、一番操作が簡単な顕微鏡で覗く。 やはり、ミジンコどころか、藻さえ見当たらない。 病院中を探し回って自家発電装置を見つけ、電子顕微鏡も試してみた。 使い方など分かる筈も無いが、マニュアルは残っていたし時間だけは余るほど有った。 幾日も、様々な試料を顕微鏡で覗いて過ごした。 食料や飲料は言うに及ばず、自分の唾液や皮膚の表面も徹底的に調べ尽くした。 そして、自家発電装置の燃料が尽きる日が来た。 少女は落胆していた。 真に、無人の世界の女王なのだと思い知らされただけだった。 |
それからは食べるものに頓着しなくなった。 酸化して不味くなっているモノを除けば、害の有るモノは無いのだ。 カビる事も腐る事も無く、少女が手を付けるまでただ変わらず食べ物はじっと待っていた。 身体を冷やそうが水に濡れようが、風邪を引く心配もない。 見知らぬ生物に襲われて傷つく事も無いだろう。 大怪我でもしなければ一生病苦とは無縁だと思うと、気が楽になって行動も大胆になった。 まず手始めに、車を何台も乗り潰して行ける所まで行ってみた。 北へ向かい降り始めた雪を眺めた。 青函トンネルは浸水して使えなくなっていたから、北海道の地は踏めなかった。 寒さに追われるように南に向かうと、本四連絡橋は三つのルートとも何処かで橋が落ちていた。 関門海峡は無事に渡る事が出来た。 九州の南端まで走り、桜島が今も噴煙を上げるのを見て、何故か救われた気持ちになった。 何者も息づかないこの星で、大地だけはゆっくりと、変わらず生命の脈動を刻んでいたのだ。 海沿いを走って箱根の地へと戻る途中、南紀白浜で太平洋に浮かぶ女神の残骸を改めて眺める。 余りに巨大なために、スケール感がまるで分からない物体だ。 初めて目にして恐ろしくなって逃げ出したあの時と、何も変わってはいないように見える。 女神に誘われるように海岸に降りて、山吹色の液体をすくって口に含んでみた。 鉄臭く、血に似た匂いと味がする。 女神が流した血が混じっているのだろうかと思った。 たぶん、これだけを口にしていても栄養は足りるのだろう。 海の水に、あらゆる生命が溶けて出来上がったスウプなのだ。 不味い事を除けば、不満は何も無い。 見つけられる食料を食べ尽くしても、飢えて死ぬ事はないのだと思い知った。 無人の世界の女王は、その生を全うする事を義務づけられているようだった。 |
安住の地を見つけられないまま、色々な場所を走ってみた。 かつては景色が良かったであろう観光道路も、緑のまったく無い景色ではただ舗装が良くて走りやすいだけの事だった。 恐ろしくスピードの出るスポーツカーを見つけてきては、限界までアクセルを踏んでみた。 普通の車に飽きると、バイクの乗り方を覚えたりジープで山を登ったり、危ない事を試しては自分がまだ生きている事を確認した。 山と積まれた商品から、気に入ったものだけ集めて自分の城を作ったりもした。 時計や宝石といった、かつて価値が有ると言われたものを身に付けたり、小さなチャペルでウエディングドレスに袖を通してみたりもした。 だがそんな事にはすぐに飽きてしまう。 どんな危ない事をやってみても、どんな贅沢をしてみても、何をやってもじきに飽きる。 少女は再び放浪し始める。 古くからある街にまったく無事な図書館を見つけて、何日もそこで寝起きしては色々な本を読み漁った。 プログラミングに興味を持って勉強し、話し相手にならないかとコンピューターに母国の言葉を教えてみたりもした。 だがやはり、何をやっても虚しいだけだった。 何も打ち込める事など無かった。 少女は酒を呑んでみた。 前後不覚になるほど泥酔しなければ、寂しさに胸がつかえて眠れない日々が続く。 酒に飽きると薬を探した。 浴びるように酒を呑み、薬の力で色々な風景にであった。 身体がもたなくなって死ぬだろうと、ぼんやり覚悟を決めた。 無人の世界の女王は、当たり前だが孤独だった。 だから少女は思い付いた。 独りが嫌なら、作ってしまえば良いのだと。 再びこの星に生命を息吹きを取り戻すのだと。 材料は、生命のスウプと寿命に等しい時間。 それが少女の持てる全てだ。 |
心に決めるとさっそく準備に取り掛かる。 海に近く開けた場所で、風雨に耐え大量の電気を使える場所が必要だった。 満足する場所を見つけるまでに半年が過ぎた。 発電装置の仕組みと手入れを学び、化学プラントを動かして天然ガスから水素を作る事を学んだ。 文明の残滓をかき集め、生命工学を基礎から人類が消える瞬間の最先端まで学んだ。 資料と実験のための機材を揃え、知識を吸収するのに二年が過ぎた。 少女は既に、この星の女王として生き始めていた。 幸い彼女の知能は優秀で、十分資料が揃っていれば本に書かれた事に理解出来ない事は無かった。 英語で書かれる事が多い学術論文や母国語で書かれる事の多い医学論文の方が、ローカルな言語より理解が早い事も幸いした。 大学院の研究生ぐらいのレベルには達しただろうと自信を深めてから、ようやく実際の実験に取り掛かるだけの慎重さも持ち合わせていた。 十分な準備を終えて、悪戦苦闘の日々が始まった。 手始めに、生命のスウプを釜で茹で、沸き立った蒸気の中でアーク放電を起こす実験を試みた。 放電を抜けた蒸気を集めて人肌に保温する装置も作った。 そうして来る日も来る日も、顕微鏡を覗く日々が過ぎていった。 一番簡単なアミノ酸を見つけるまでに、また一年が過ぎていた。 煮詰まった生命のスウプが全ての材料だ。 生命のスウプからアミノ酸を合成する手法を確立し、それを大量生産するシステムを作り上げるのに、また長い年月が過ぎた。 もっとこの星が若ければ、地熱が豊富で酸素が薄く、大気にメタンが充満していれば、女王が作った装置は必要無いのだ。 濃縮された生命のスウプとアミノ酸で水槽を満たし、今度はそこに強烈な紫外線を浴びせる。 化学反応が、奇跡を産むのに一体どれだけの時間を掛ければ良いのだろうか? あらゆる触媒を試し、あらゆる元素をぶち込んでみた。 酸素を遮断し、二酸化炭素を遮断し、それも駄目と分かると今度は純メタンや純水素、窒素、ヘリウム、さらにそれらの膨大な組み合わせ試した。 だが、アミノ酸より先へは遅々として進まない。 生体の材料は一通り合成できても、DNAは人の手では造れない。 DNAが自己複製を始めなければ、どんなに複雑な構造を持つ巨大な蛋白質を造っても、それは単なる蛋白質に過ぎないのだ。 考えうる全ての方法をやり尽くして、辿り着いた結論は、無から有を産むのはいくつもの奇跡が必要だと言う至極当たり前の事だった。 最初の実験装置が完成してから結論に達するまでに、貴重な十年が失われていた。 |
かつての少女は既に、産まれてから人類が姿を消すまでと同じだけの時間を、独りで過ごしていた。 女王の身体は成熟し、人類社会が健在なら子供の一人や二人は居てもおかしく無い年齢になっている。 自分が女として産まれた事を、初めて神に感謝した。 海を渡る事が出来れば、ヒトの凍結精子を保存している施設がまだ生きているかもしれ無いと考えたのだ。 だが、慎重な女王は船を捜すより先に畜産研究所を訪れた。 優秀な肉牛の繁殖のため、凍結精子が有るはずだからだ。 雄牛から採取され、直後に液体窒素に浸された凍結精子は、まだ低温を保ったまま其処に有った。 女王は疑っていた。 生殖細胞はそれ一つで一個の生命と見なす事が出来る。 発生前の生命があの災厄を潜り抜けたとすれば、例えば何処かで卵から鶏が産まれていても良さそうなものだ、と。 女王の予感は当たっていた。 精子のカタチをしたそれは、既にDNAを失っていた。 生命の鎖は、15年前に途切れていたのだ。 ヒトの生殖医療の最先端を学び、安全性と方法をすっかり理解するまでにまた一年が過ぎた。 女王は排卵誘発剤を手にした。 実験材料は自分自身の身体以外に無い。 自分の身体を傷つけながら、子宮から数個の卵子を採取する事に成功するまでに半年が過ぎた。 さらに身体が治るまでに、また無駄な時間が過ぎていった。 次は身体を傷つける事が無いようにと、作業の手順も試行錯誤して洗練させていく。 そうして採取した卵に、自分の体細胞を埋め込む事にまでこぎつける。 卵割が確認できれば、自分の子宮に戻して育てるつもりだった。 何がいけなかったのかは、分からない。 最新の研究はすべて理解した上で行ったのだ。 羊や類人猿で既に実績の有った方法を慎重になぞった筈だ。 だが幾つ試しても、何回試しても、卵割は起きなかった。 DNAの残った凍結精子さえあれば、顕微授精ぐらいは成功させられるぐらいの経験を積んだが、自分以外のDNAは何処へ行っても手に入らない。 自家受精の試みは、いつしかルーチンワークとなって女王の日常に変わった。 彼女は一つ一つの卵に名前を付けるほど、慎重に大切にそれらを扱った。 全てが自分の娘になりうるのだと、戦慄に似た寂しさを感じながらその研究に没頭し、月日はあっという間に流れて行く。 男の記憶を持たない女王の身体が、毎月医療用具の冷たい硬さに傷つけられ続けた。 そして、自分の卵と自分の体細胞の核を使って、最初の細胞分裂、卵割を起こす所まで漕ぎ着けたのは、まさに執念と言うべき努力の結果だ。 調べた文献には、四回の卵割を経て十六個の細胞を持つに至った受精卵がもっとも着床しやすいと有った。 だが一番卵割が進んだものでさえ、八つになった所で「死んで」しまうのだ。 あと一回の卵割は、いつも起こらなかった。 四つに分割しただけですぐに子宮に戻すよう手順を改めてみたが、着床した卵は一つも無かった。 最初の卵割を確認してすぐ戻してもみたが、次の月にはちゃんと生理が来てしまう。 それでも翌月には排卵誘発剤を呑み、一番良さそうな卵を子宮に戻し、着床する事を願い続けた。 確率を上げる為、卵割を起こした卵をすべて子宮に戻す事も試した。 そうして十年かかって、ついに生理が止まった。 女王は歓喜した。 十ヶ月後には自分にそっくりな娘が生まれるのだと思うと心が躍った。 彼女の興味は生殖医療から産科医療へと移った。 再び膨大な資料を揃え、自分の身体の中に育まれている新たな生命のために必要な準備を整える。 錆付いた医療器具を整備して、超音波エコーを自分で確認してみた。 だが何週間たっても、何も映らない日々が続く。 心音も一向に聞こえてこない。 それでも、生理が止まっている事に望みを掛けて、来る日も来る日もエコーを覗いた。 そうして、もっとももどかしい半年が過ぎた。 何も起こらなかった半年が。 その後は、待っても待っても生理は来なかった。 排卵誘発剤を呑み続け、生殖細胞を使い切ったのだと思い知った。 わずか十年で、彼女の「女」は鞭打たれ働き過ぎて、役目を終えたのだった。 自家受精を思い付くまでに過ぎていた年月と、その間に毎月無駄になっていた卵を数えて悔しい思いをした。 とうとう、彼女は自分の娘を作る事が出来なかったのだ。 女王は、やっと四十年生きただけだった。 |
その日から、女王は裸で波打ち際に出る事を日課とした。 焼け付く紫外線に肌を晒し、水より重いため楽に身体の浮く山吹色の海を泳ぐ事に没頭する。 既に世界に季節は無く、嵐も無い穏やかな海で、来る日も来る日も肌を焼いて泳ぎ続ける。 家に戻るとシャワーも浴びず、日膨れて剥がれた皮膚を丁寧に集めて顕微鏡で覗く。 ただそれだけが日課となった。 食事はここ数年、研究に時間を取られてまともに取った事が無かった。 実験室で煮詰めたスウプを飲めば事足りたからだ。 山吹色の海の中では、泳ぎながら生命のスウプを飲み、沢山飲んではそのまま排泄した。 この海は、まさに巨大な羊水だった。 泳がずとも楽に浮いているし、その気になれば、肺を満たすほどに羊水を飲み込んでしまえば、溶けた酸素で呼吸も出来る。 むしろ酸素を補充する植物が無く、かなりの酸素が海に溶けたせいで薄くなってしまった空気を吸うの方が苦労した。 海の中で溺れている方が息が楽だと言う可笑しな事態になっていた。 そうやってただ泳ぐ日々がまた、十年近く続いた。 女王は、ついに心に決めた使命を忘れてしまったのだろうか? いや、来る日も来る日も熱心に、使命を果たすべく努力していたのだった。 毎夜探した剥落した皮膚の中から、女王はようやく望むものを探し当てた。 黒く変色し、不自然に盛り上がった皮膚だった。 女王の右の肩が、焼けたようにただれ出したのはそのすぐ後の事だった。 女王はかつて作り上げたプラントを再稼動させて、またアミノ酸のスウプを作り始めていた。 今度は、出来上がったアミノ酸入り生命のスウプを溜める巨大な池を造り、溢れた部分が直接海へ溶けるように細工した。 そうやって煮詰まったより濃密な生命のスウプに、自分のただれた右肩を浸してごしごしこする日々が始まった。 だんだん面倒になって、まるで風呂にでも入るように毎日池に身を浮かべるようになった。 新しい日課の傍らで、女王はまだまだ忙しく働き続ける。 プラントは徐々に大きく、充実していった。 発電装置のための水素を作るメタンや天然ガスが足らなくなり、手に入るだけの太陽光発電装置を集めた。 そうしてようやく、女王がメンテナンスしなくても二十四時間稼動できるプラントが完成した。 生命のスウプを海からくみ上げ、煮詰めて蒸気の中にアークを飛ばし、 冷まして人肌に保温する一連の作業から解放された。 何年も休むことなく濃い生命のスウプを池に満たし、溢れ続けさせる事出来ると確認できた頃、女王の身体はすっかり弱っていた。 肩に発生した変異は、じきに他の皮膚も侵食し始めた。 次にリンパ節が腫れ上がり、熱が続いて食欲が落ち始める。 五十年生き続けた身体は既にすっかり面影が無いほど痩せ衰えていた。 |
生命のスウプを満たした池では、奇跡の準備が始まっていた。 女王の身体から剥がれ落ちた皮膚がそのまま分裂を続け、灰色の醜いドロドロのねばねばとして、池の表面を覆い始めていたのだ。 溢れるスープに混じって、ねばねばは海へと溶けていく。 栄養が薄くて「死んで」しまうねばねばがほとんどだったが、いつかもっと薄い養分で生きる「強い」ねばねばが産まれるだろう。 やせ衰えた女王は、久しぶりに初めに着ていた服に袖を通して、あの始まりの海岸へとやって来た。 もはや、弱った身体では薄い空気を吸っているのが辛くて、山吹色の波打ち際へとその身を横たえる。 波に揺られるリズムが、疲れ果てた女王の身体に心地良い眠りを届けてくれた。 波に引かれて、彼女の身体は海の中へと沈んで行く。 海の中で、外よりずっと楽に息が出来て、女王の眠りはさらに深くなる。 焼け付くような陽光の痛みを、海の深さが遮ってくれた。 もう何十年も無かったような、深い深い眠りだった。 |
女王が姿を消したプラントで、最初の奇跡がついに起きた。 海に落ちると薄まって死んでしまうねばねばが、濃いスウプが海に溶け始める注ぎ口の周りで生き残るようになったのだ。 女王のプラントが不眠不休で生命のスウプを煮詰めたおかげで、実験室が面した小さな入り江は全体的に濃度が濃くなっていたのだった。 強くなったねばねばは、何日もかかって徐々に入り江と外洋の接する所まで広がった。 そして、淘汰の歯車が周りだした。 女王から離れて生き続けるねばねばに、太陽の強烈な紫外線が降り注ぐ。 紫外線はDNAの鎖を傷つけ、断ち切り、繋ぎ換えた。 長い時間外洋を漂っても死ぬ事無く、また波に乗って淀んだ潮溜りに辿り着けばそこで分裂を再開するだけの強さを持ったねばねばが産まれるまでに、そう長い時間はかからなかった。 |
海流に乗って、眠り続ける女王は更なる深みへと沈んでいく。 焼け爛れて病変が広がっていた顔の皮膚が、スウプにふやけてかつての白さを取り戻していた。 痩せ衰えた身体を真っ赤な着衣が隠して、日に焼けて色が落ちた髪も山吹色の海の中では輝く金髪に見えた。 病に侵され疲れ果てた女王は、昔の姿を取り戻して、一日の大半を安らかに眠って過ごした。 目が覚めれば、自分を包んだスウプを飲み込むだけで良い。 寒ければ少し浮かび上がって日の光に暖まった浅い場所を漂い、暑くなれば沢山スウプを飲んで深みへと沈んだ。 泳ぐ必要さえ無く、胎児のように身体を丸めてただ漂った。 なぜもっと早くこうしなかったかと、女王は後悔した。 焦りも痛みも苦しみも無い、すべての悩みから解放された安らかな日々だった。 長い間漂って、いつしか女王は浅瀬の水底に辿り着いた。 輝く水面から顔を背けるように、女王が最期の寝返りを打つ。 せっかく全てが心地良いのに、水面の眩しさだけが不満だったのだ。 誰か、手を翳してくれたら良いのに……。 目を閉じて、どのくらいの時が過ぎただろうか? 気が付くと、自分の心臓がとうとう仕事を辞めてしまったようで、耳に響いていた鼓動が途切れていた。 目を開けても、どちらが水面なのか分からない。 気が付くと、辺りは真っ暗だったのだ。 生命のスウプに包まれているのに、こうして死につつあるのが何だか可笑しな事に思えた。 可笑しくて可笑しくて、女王は最期に少しだけ笑った。 寂しくはなかった。 誰もが溶けた生命のスウプに、ちょっと遅れて最期に自分が溶けるだけの事だから。 けれどその時、女王の頭上では――。 女王はそれに気付く事無く、再び静かに目を閉じた。 ……そして誰も、居なくなった。 終
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