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write by 杜泉一矢

 天頂に達した太陽が、すでに真っ黒なアスファルトを更にじりじりと焦がし上げている。
 その道路の漆黒と怖ろしいほど明瞭なコントラストを成し、真っ青な空がどこまでも、果てしなく突き抜けている。
 この色合いだけならば、まるでどこかのリゾートを思わせるようだ。
 ところがここは街の中、その焦げて溶かされたアスファルトを踏みしめ道を行く人は数多い。
 誰もが強烈な日差しからわずかでも逃れようと下を向き、ビル群の作り出す日陰を求め、這うように気怠げな足取りで歩いていた。
 そんな倦怠しきった空気が漂う、いつもの昼下がりだった。
 しかし、その音は突然に街の中に響いたのだった。
 誰もが、その音に耳を澄ませ、足を止めた。
 下を向いていた人たちの顔が一斉に上げられた瞬間は、そりゃ、かなり気持ち悪いものがあったが。
 けれど、道行く人たち全員にそれをさせてしまうほど、不思議と懐かしい感じのする爆音だったのだ。
 そして、その爆音を追うようにもう一つ、音が響いてきた。
 そちらは、毎度おなじみのサイレンの音。警察の無粋な音色だったから誰もが気にもとめることはなかった。
 始めに響いた爆音のみが道行く人の足を止めたと言ってもいい。
 そして、陽炎立ち上るアスファルトの向こう側から、突然それは現れた。
 フロントウィンドウを陽光に煌めかせ、進軍マーチのようにクラクションを鳴らしまくって、のたくさ走る車共を蹴散らすようにして。
 誰もがそれに目を疑い、そして自分たちの耳が感じた懐かしさに納得もしていた。
 こんな骨董品が、未だに現役で動いていることに対して。
 爆音を奏でていた物体は、度肝を抜かれるほどに、ど派手なクルマだった。
 陽光に艶めかしく輝く目の覚めるようなキャンディレッドと、溶けかかったアスファルトの黒に映え渡るクリームホワイトのツートーンのコンバーティブル。
 御丁寧に履いているタイヤまでがホワイトリボンを飾っている。
 白い帆布のルーフトップは折り畳まれて後席の後ろにきちんと仕舞われている。
 そして、その紅いボンネットには、白いペンキで、堂々したぶっとい字がJustMaried!!と自己主張しまくっている。
 もっとも、それを見ることが出来たのは、ビルの窓から顔をのぞかせた暇人だけだったけれど。
 爆音振りまく、その車とは、デトロイトの残照、フォード・フェアレーンだった。
 さすがにその名称を正確に記憶した人間は、この場にはいなかったが。
 けれど、古い映画を見たことのある人間ならば、何度か目にもしているだろう車種だった。
 しかしいま、観客の目の前で展開する現実は映画とは少々趣を異にし、銀幕の優雅さとは、いささかかけ離れていた。
 フェアレーンは四輪全てをスキッドさせ、古めかしいタイヤに上品さとはほど遠い悲鳴を上げさせながら、ものすごい勢いで交差点に突っ込んでいく。
 タイヤの上げる悲鳴を警笛代わりにしながら、フェアレーンのボディが横を向く。
 フルサイズのアメ車が繰り出すドリフトの迫力に、たじろがない人間なんて、そうは存在しない。
 その交差点近辺にいた、誰も彼もが激突を怖れて逃げまどう。
 走っていたほかの車は慌ててハンドルを切り、突っ込んでくるフェアレーンのために大慌てで道を譲る。
 大きく開いた道路の真ん中を、大きなお尻を扇情的に振りつつ華麗なドリフトのラインを描いたフェアレーンは悠々と交差点をクリアしていった。
 道に居並ぶ人々の間から期せずして溜息が漏れた。
 事故にならなかった、ということだけでは決してなかっただろう。
 郷愁……と呼んで差し支えないものが、皆の胸には去来していたのかも知れない。
 しかし、皆が胸をなで下ろしたのもつかの間、そのほれぼれとする一時を台無しにする大量のサイレンが後に続いてくる。
 映画よりも映画的だった美しい時間を台無しにされたせいか、その無粋な集団には一様にあからさまな侮蔑を込めた視線が投げかけられる。
 そんな視線を知ってか知らずか、フェアレーンを追っているらしいパトカーの一団は先を争うようにして交差点へ突っ込んでいった。
 だが、それはあまりに無謀に過ぎた。
 そんな台数を捌けるほどの道幅があろう筈もない。
 そして、当然の帰結として何台かのパトカーが歩道に乗り上げたり、商店の軒先に鼻面を突っ込んだり、はたまたオフィスのロビーに闖入してしまったりして、あたりは一瞬にして上を下への大騒ぎになってしまった。
 少なくともその場面を目にした半数の人間は、胸の中で快哉を叫んだろう。
 突っ込まれた方はいい面の皮だろうが。
 だが!
 そんな騒ぎになっているにもかかわらず、他のパトカーは脱落した僚車に目もくれず、追跡を続行した。
 その、あまりに殺気立ったパトカー達の振る舞いに、誰もが今度は固唾を呑むこととなった。
 それほどまでに、眼前に起こった光景は異様なものだった。
 結婚式場から凶悪犯が逃走してきたとでもしか思えない。
 誰もが、そんな馬鹿なと思っていたが……


 実はその通りだったのだ。

 タイタンの地方都市、サンマルコスの旧市街。
 街並みだけは、かつて地球のアメリカにあったサンフランシスコ並だが、現在の都市機能は全て綺麗で清潔な新市街に持って行かれてしまった。
 けれども、ここにはまだまだ人間の生活があった。
 だから、この派手なカーチェイスは容易に娯楽に結びついた。
 無数の窓から突き出される顔、顔、顔。
 街区を走り抜けていく、フェアレーンに割れんばかりの歓声と紙吹雪が舞う。
 ベトナム帰還兵の歓迎もかくやという騒ぎだ。
 そして、事情はどうあれ貧乏籤を引かされるのはいつだって警察というわけで……
 後ろから追跡を続けるパトカーには、ゴミ、生卵、その他諸々の鬱積がぶつけられていた。

「そーいやさぁ、大昔の歌で「ジョウが街に帰ってくる」ってのなかったっけ?」

 運転席にまで舞い込んでくる紙吹雪を、払いのけることもなく心地よさげに顔中に受けながら、薄笑いを浮かべながらステアリングを握る男が楽しげに言う。
 少々凝ったデザインの細身のサングラスに、ぴしりと決めた黒のスリーピースが、誂えたように似合っている。
「知らないわよっ! ジョウ。逃げ損なったら「あんた」を八つ裂きにしてやるからねっ!」
 男のあまりにのんびりした物言いに、ヒステリックな罵声が返される。
 ジョウと呼ばれた男は、心外そうに肩を竦め、隣に座って自分を怒鳴りつけた女性を見つめた。
 風に巻かれて、顔に貼り付こうとするヴェールをうるさげに払いのける「黒」のウェディングドレス姿の美女を。

「何よ、なんか言いたいことあんの?」

「いや、別になんでもないよ……たださ」

「ただ、何よっ!」

「いや、似合うなぁ……なんて思ってね」

「この……大馬鹿っ!」

 女はついにうざったくなったのか、ヴェールを剥ぎ取るとそれでジョウの頭を殴り、外へとそれを抛り出した。
 彼女の怒声を引き裂くようにして、無粋きわまる下卑た音が、じりじりと追いすがってきた。
 いわく、先刻から響くサイレンという奴だ。

「じょーだんじゃねえよなぁ……」

 愚痴愚痴と呟きながら、ジョウはウィンドウから吊られたミラーをちらりと覗き見ると、そのまま乱れた髪を手櫛で整え始める。
 その言葉と振る舞いには、相も変わらず緊迫感というものが見事なまでに欠落していた。
 右手で握る、細身で大径のステアリング。
 左手の肘はドアの縁に引っかけられ、どこをどう見たとしても、まるでこれからナンパにでも繰り出すといった風情だったのだから。
 ジョウが鼻歌を歌っていないのが、不思議なくらいだった。

「まったく、しつっこいわねぇ」

 助手席に横座りして、ジョウとは対照的に緊迫した面持ちで後ろを窺っていたウェディングドレスの女が呟く。
 呟いたと同時に、ガシャリと金属と金属が擦れ合う音がする。
 彼女が手に持った、鈍い黒に光る機関銃の弾倉を入れ替えたのだった。
 耳元で金切り声を上げる風切り音よりも耳に触る、遙かに剣呑な音にジョウは密かに眉をひそめた。
 そのついでというわけでもなかろうが、ジョウはステアリングを持ち替えると右の手でルームミラーの位置を若干動かした。
 もちろん後方のパトカーを見るためなんかではなかった。
 忌々しげに呟いた彼女の勇ましく立てた片膝が割る、黒いドレスから覗いた白く眩しい長い脚を鑑賞するためだった。

「死にたい?」

 ジョウの視線を一瞥することもなく、彼女がぴしゃりと言った。
 これ以上はないって言うくらいに、感情の混じらない声で。
 大慌てでジョウは、ミラーの位置を元に戻した。
 彼女の言葉は、運転でとか、警察に捕まって、という意味では当然なかった。
 そのまま「撃ち殺されたいの?」という意味だった。
 それに追い打ちを掛けるように言葉は続く。

「いいこと、あたしとアンタは夫婦でも何でもないんですからね。これはただの仮装、偽装結婚なんだからね。判ってるわよね」

「せっかく、呑んだくれの神父を叩き起こして神様の前でキスしたってのに、つれないなぁ。マイハニー……クリス」

 ジョウの言葉に、ほんの僅かな時間だけ、クリスと呼ばれた女の頬に朱がさした。
 それは余りにも短い時間だったので、ジョウは見逃してしまっていたが。
 そして、ジョウが気づいたのは自分のこめかみに、絶対零度の冷たさの銃口が押し当てられているという事実だけだった。

「いいこと……それ以上ろくでもない減らず口をたたいたら、アンタをここから抛りだして、あたし一人で逃げるからね!」

 クリスはこれ以上ないくらいに本気だった。
 本気でなければ銃口など人に向けるものじゃない。
 だからジョウは大慌てでこくこくと頷いた。
 ジョウも死ぬほど本気だった。
 フェアレーンのトランクルームに無理矢理詰め込んだ現金をその目で拝むまでは、死ぬ気など更々ないジョウだった。
 もちろん、その現金が非合法な手段で強奪されたのは言うまでもあるまい。
 彼と彼女はプロの強盗だった。
 ちょっとしたことで知り合い、一緒に仕事を一山こなすこととなった。
 二人で幸せに酔った新婚カップルを装い、現金輸送車を止めてお宝を頂戴する。
 単純明快な昔ながらのホールド・アップの筈だった。
 ところがどっこい、追いかけてくる警官隊の熱の入れようがこれまた尋常ではない。
 どーしてなのだろうか?
 ぐーたらが取り柄とされる、今時の警察が?
 その理由は、ジョウ「だけ」が知っていた。
 もしも、クリスに訳を教えたら……きっと命がなかったろうから。
 輸送されていた現金が、今日入金予定の「警官達のボーナス」だなんて、口が裂けても言えなかった。
 もし、口を滑らせてしまったら……
 それを想像しただけで、脇の下に冷たーい汗を感じるジョウだった。
(ジョウが想像したのは、薄ぐらーい路地の片隅で腹から血を流しながらひっそり死んでいく、ものすごーく惨めな自分の姿だった)

「くわばらくわばら」

 口の中で呟き、曖昧な笑みを片頬に浮かべると、ジョウはグローブ・ボックスの中から黒くてごつい拳銃を抜き出し、後ろを見ることさえせずに、いきなり全弾撃ち尽くした。
 熱い薬莢が陽光に輝きながら、舞い踊って後席に転がる。
 右後方に追いすがってきていたパトカーのフロントガラスに蜘蛛の巣のような罅がいくつも生まれ、視界を塞がれたそ奴はハンドル操作を誤って消火栓を薙ぎ倒し、車体を分断するような形で街路灯に激突して動くことを止めた。
 もっともそれ一台始末したところで、この逃走が楽になるわけでもないのだが。

「弾は大事に使いなさいよねっ!」

 案の定、怒られた。
 そう言いながらもクリスも触発されたのか、手に持っていた得物をパトカーに向けて構えた。
 その姿はまるで一枚の絵画のように様になっている。
 彼女の手中にあるそれはかつてトミーガン、或いはシカゴ・タイプライターと呼ばれた、由緒正しいマフィア御用達の逸品だった。
 軽快な音を立てながら、彼女の手の中でそれが豪快に火を吹いた。
 彼のガヴァメントとは比べ物にならない数の弾丸がバラ撒かれ、数台のパトカーがよろめいて後続を何台か巻き添えにしてリタイアした。
 しかし、それもやはりそれだけのことだった。
 雨後の筍というか、孵化したばかりの蟷螂の卵というか、とにかく後から後からパトカーが湧き出してくるようだった。

「ほんっと、しつこいわねぇ」

 小さく嘆息しながら、クリスがこぼし、助手席にその痩躯をぼそっと落とし込んだ。
 ちらりとジョウの握るステアリングに目をやり、溜息と同じような調子で言葉を繋いだ。

「アンタなんかの運転に命を預けるって言うのも業腹だものねぇ」

 それにはジョウも苦笑を漏らすしかなかった。
 と不意に、キューンと鋭い音がしてフェアレーンの砲弾型のサイドミラーが消えてなくなってしまった。
 綺麗な銀メッキをかけられていたミラーがあった場所を不思議そうにジョウは見つめ、次にはガンッとフュエル・ペダルを踏み込み直した。
 フルサイズの巨体を震わせて、フェアレーンはパトカーを引き離しにかかる。
 ガソリン車の爆発的なパワーは、ちんまい近頃の車とは訳が違う。
 まぁ、パトカーのエンジンはそれでも特別製ではあったから、そこそこの追跡が不可能なわけでもないのだが。

「連中も馬鹿じゃなかったわけだね〜」

 勢いを増した風圧に乱れた髪を手櫛で撫でつけながら、ジョウは相変わらずの〜んびりと言った。

「あたりまえでしょっ! ほんとに逃げ切れなかったら、喉笛掻っ切ってやるから」

「へいへい」

 かれこれ二時間ばかり、彼らはこのおっかけっこを楽しんでいたのだ。
 実のところジョウなどは、ガソリンが切れるまで楽ませてもらえるんじゃないだろうかと思い始めていたくらいだったのだ。

「しかたねえなぁ」

 と、ジョウはフェアレーンのステアをいきなり左へと切り回した。
 フェアレーンはジルバのステップで華麗に踊り、ビルとビルの間の僅かな隙間に鼻面を突っ込んでいった。

「きゃあっ!」

 急激にかけられたGに翻弄されるクリスの悲鳴が聞こえた。
 ――意外と、可愛い声もでるんだな……
 そんなことを思っていたら、ハンドル操作が甘くなった。
 ジルバのステップを決めさせるには、このフォードは少々ロートルだったのかも知れない。
 フォーレターワーズが所狭しと書き殴られた、やたらと汚いビルの壁面と、美しく磨き上げられたスティールのバンパーが意に染まぬキッスを交わしてしまう。
 目にも鮮やかに跳ね飛ぶ火花が、そのまま拒絶の言葉だ。
 そこかしこに置かれたひしゃげたトラシュ缶を跳ね飛ばしながら、フェアレーンはその饐えた臭いの充満する、くそ狭い路地を屑を巻き上げながら疾走する。
 その瞬間、つい先日にそんな路地で再会した男の顔がジョウの脳裏に浮かんだ。
 ――あれは、旨い酒だったな……
 そう思いかけた途端、不意に熱すぎる熱気が顔のすぐ脇で巻き起こった。
 その熱気に、ジョウの思考が朝露のように消え去る。
 後方で凄まじくも、非音楽的な音響が響き渡り、直後、耳を聾する爆発音がフェアレーンを追い越していった。
 どれほど先鋭的なパンクロッカーでも、あれほど破壊的なノリは演出できなかっただろう。
 さしものジョウも、振り向くことに躊躇するほどの音だった。
 ふと横目で助手席を見上げると、クリスの得物が変わっていた。
 ぱっと見、クリスの手に握られていたのは単なる金属の筒だった。が、その先についていたはずの物体が行方不明になっていた。
 それが後ろの阿鼻叫喚を呼び起こしたことは想像に難くない。
 ぽい、と何の未練もなく彼女は金属の筒を投げ棄てると次の得物を後席からひねくりだした。
 差し渡し四十センチはありそうなドラムマガジン。
 それに装填されている弾薬は、間違いなくグレネード。
 それをジョウは、地球産の古典映画で見かけたことがあったのを思い出していた。
 ――どーでもいーが、こんな物何処で調達して来るんだろう?
 ジョウは本気で悩んだ。
 しかし、そんな思いも一瞬だけのことで、すぐに気持ちを切り替える。
 出口が目の前に見えていたのだから。
 もっとも、いまの一撃でも未だに逃げ切れるわけでもなかったのだが。
 サンマルコスの警官全員が「彼らだけ」を追っかけるために出張ってきてるんじゃないかってな騒ぎなのだから。
 路地が途切れ、再び大通りへとフェアレーンは身を躍らせた。
 しかし、飛び出した瞬間にジョウはブレーキを思いきり踏んづけることとなった。
 目の前に飛び込んできたのは、パトカーが築いたバリケードだった。
 それを掩体にして、無数の警官がこちらに銃を向けていた。
 くるくると独楽のように回るフェアレーンのコントロールを取り戻したときには、警官隊の鼻面と顔をつきあわせるような距離しか残されていなかった。
 さすがに自分に向けて銃口を突きつけられるのはいい気分ではない。
 途切れることなくジョウの表情に張り付いていた笑顔が遂に消え、いぎたない舌打ちの音が聞こえた。

「止まるときくらい声を掛けてよっ!」

 目でも回したのか、現状を把握してないクリスがジョウを罵った。

「いくらでも罵ってくれていいからさ、あれ見てくれ」

 ジョウは真っ直ぐに指さした。
 今度ばかりは軽口も叩けなかった。
 精一杯真剣な声で、ジョウは言ったつもりだった。
 それを後押しするようなタイミングで警官隊から、拡声器で増幅された声が落ちてきた。

「強盗犯に告ぐ、武器を棄てて投降しなさい!」

 趣もひねりもない言葉にクリスは冷ややかな視線を警官隊に投げ、こともなげにジョウに答えた。

「パトカーがどうかして?」

 そう言いながら、彼女は再び後席をごそごそやりだした。
 取り出したのは筒型をした、少々長めの手榴弾だった。
 それを二個、一つずつ手に持って、クリスは行儀悪く口でピンを抜いた。
 そのピンを外に吹き棄てながら、クリスが形の良い顎をしゃくった。
 行け、とクリスは言っているのだった。
 しかし、ジョウはどうしても確認せずにはいられなかった。

「どうかして……って?」

「見りゃわかるわよ、パトカーがバリケードを作ってるだけじゃない」

 なんだか、ジョウはもの凄〜く悪いことをしたような気分になってきた。
 実際、言葉を交わすごとに、クリスの目尻が吊り上がっていく。
 恐る恐る、もう一言だけ口にしてみる。

「あの……あれを突破する自信がおありなんでしょうか?」

 クリスのエメラルドを彷彿とさせる緑色の目がすうっと細められた。
 その目はあんまりなくらい露骨に「アンタ、馬鹿?」と言っていた。
 そのドライアイスもかくやと言う眼光に耐えきれず、ジョウは亀の子のように首を竦めるとハンドルを握り直してフュエルペダルを思いっきり踏み込んだ。
 後輪から白煙を吹き上げ、フェアレーンはぐうっと得物に飛びかかる肉食獣のような迫力を伴ってパトカーの群に襲いかかった。
 V8エンジンの強力なパワーを一気に開放したアメ車のダッシュにもバランスを保ったクリスは両腕を撓め、パトカー共の頭の上に向かって両手に持った手流弾を投げつけた。
 しかし警官隊はそれには全く気づかなかった。
 それどころではなかった。
 バリケードに真っ直ぐ突っ込んでくるとは思っていなかったのだろう、スナーリング・ビーストと化し、驀進してくるフェアレーンに気を取られた警官隊の反応はどう贔屓目に見ても遅すぎるとしか言いようがなかった。
 そして、場数を踏んだ手練の強盗のクリスにとっては、一瞬の遅滞だけで充分だった。
 警官隊の頭上へぶん投げられた手榴弾が軽い音を立てて炸裂し、重くてぶ厚い煙を吐き出した。
 そんな中で撃ち合いをすれば同士討ちになることは目に見えている。
 しかし、何条かの火線が交錯しフェアレーンのウィンドウが粉々に砕けた。
 それがジョウの頬に微かな切り傷を作った。
 頬に伝う熱い感触をいつの間にか楽しみつつ、ジョウは更にペダルを踏む足に力を込める。

「やめえっ、撃ち方やめっ!」

 やはり同士討ちになったのだろう、そこかしこからうめき声が上がっていた。
 スモーク弾に視界を塞がれた警官達は銃を撃つこともままならずに右往左往するしかなかった。
 手榴弾を投げたクリスの手は、流れるように滑らかな弧を描いてグレネーダーを握り、次にはぽんぽんと乾いた音を発して、二発のグレネード弾が道を塞いでいるであろう煙の向こうのパトカーに向けて発射された。
 微かな煙を曳きながら向こう側へと消えたグレネードは、次の瞬間に熱と光にそのエネルギーを変換した。
 その威力は凄まじかった。
 ハンドルの上に身を伏せていたにも関わらず、爆発の衝撃にジョウの体が震えた。
 煙越しにもパトカーが二、三台宙に舞うのが見えたくらいだ。
 阿鼻叫喚のさなかをクリスとジョウは胸の中で快哉を上げながら通り抜ける。
 ジョウなど口笛を吹いてしまったくらいだ。
 重苦しい煙のヴェールを抜けると、道はまるで光るような河に見えた。
 散発的な銃撃が後ろから伸ばされたが、それが当たったりするはずはないとジョウは確信していた。
 念を入れるつもりか、クリスはくるりと上体を捻ると止めとばかりにグレネードを二発、置き土産に放った。
 轟然と、街が震えた。
 もう、追いすがってくるパトカーの姿はなかった。

「あのさ……」

 サイレンを聞き慣れた耳には痛いほどの静寂に耐えかねて、ジョウがぽつりと呟いた。

「なによ?」

 疲れたようにクリスは、助手席にへたりこみながら言った。

「後学のために聞いておきたいんだけど、そういう物を一体どこで手に入れて来るんだい?」

 ジョウの言葉に、クリスは意外なほど優しく微笑んだ。

「女には秘密の多い方が素敵でしょ?」

 人差し指を可愛らしくすぼめた唇の前に立て、チャーミングなウィンクをしてみせる。
 決して答えにはなっていなかったが、ジョウはクリスのくれた答に満足してしまい、一つ肩を竦めると、ステアリングを握り直した。

「ま、いいか」

「ね、ジョウ?」

「なに?」

「あんた、黙ってるときの方が男前よ」

「そりゃ……どうも」

「ね、キスして」

 思わず、ジョウは黙り込んだ。
 親の仇を見るように、じっと前の道路だけを見つめる。

「……なによぉ、その態度は」

「い……いや、なんか、照れちゃって」

「まったく、もう!」

 そう言うと、クリスは強引にジョウの顔を捕まえると、その唇を奪い取った。
 押しつけられる柔らかな感触は果てしなく、甘かった。
 彼女の柔らかな体から立ち上る、硝煙のきつい匂いも気にならないほどに。
 横目で輝く道を見つめたまま運転を続けながら、ジョウは先刻、ほんのわずかに脳裏をよぎったことを思い出していた。
 「こんな世界」に自分を放り込んでくれた大男のことを思いだしていた。
 それは、路地裏で再会した禿頭の大男のことだった……



 その店は、気づかなければ確実に誰もが素通りしてしまうようなところに存在していた。
 サンマルコス旧市街の裏通り。
 道幅はせいぜい二メートルあるかないか。
 隅にはゴミと吐瀉物と汚物が溜まったような路地裏だ。
 裏口ばかりが居並ぶような通りの一隅に、小さな看板を一つぶら下げただけで、そのバーは商売をしていた。
 その看板には小さなステンシル体の金文字で「ステラ」と書き記されていた。

「フムン……」

 一人の大男がその文字を見上げていた。
 道を一人で占領したような顔をして。

「ここで……いいか」

 ぼそりと呟いて、大男は肩を竦めた。
 しかし、傍目にはその仕草は肩を怒らせたようにしか見えなかった。
 そんな仕草一つで、そこいらのチンピラなら震え上がってしまうことだろう。
 それほどの迫力を漂わせている、男だった。
 そりゃそうだ。
 男は賞金稼ぎを生業としているのだから。
 そんじょそこらの破落戸など、束になっても敵わない修羅場をくぐり抜けてきたのだ。
 その男はジェット・ブラックといった。
 ジェットは注意しながらドアノブに手を掛け、それを回す。
 以前、やはりこういう店で、ついうっかり左手でドアノブを握りしめてしまい、真鍮製のそれを握り潰してしまったことがあったからだった。
 彼の左腕は義手だった。
 もちろん義手と言っても、生身以上に精巧に作られたそれは恐ろしいほどの精度で作動する。
 しかし、それを移植した直後には生体とのインターフェイスが上手く動作せずに、入力した以上の駆動をしてしまうことが、ままあった。
 しかし、今日は大丈夫だった。
 ちゃんと右手でドアノブを握ったし、左手のコントロールもちゃんと出来るようになっている。
 ――あの頃は、慣れてなかったからなぁ……
 僅かばかりの苦い思いを噛みしめながら、ジェットは酒場の中に、もっそりと入っていった。
 予感はあったのだ。
 そして、ジェットのそれは的中していた。
 ドアを開いた瞬間、ぴいんと張り詰めた空気が間違いなくジェットの横っ面を張り飛ばしていた。
 殺気寸前とも言える、研ぎ澄まされた何かが、そのバーにはあった。
 店の中は薄暗く、いかにもといった雰囲気を漂わせている。
 カウンターだけを備えた小さな店。
 勿論カウンターの後ろには、いかにも世を儚んでこの仕事に就きましたというような表情をした、初老のバーテンダーが油断のない目つきでグラスを磨いていた。
 実のところは違うのかも知れないが。
 そして、カウンターには少しばかり安っぽく見えるドレスを着た女が一人。
 しかし、どうしてどうして、女の美貌はそんなドレスの安っぽさをうち消して有り余るほどだった。
 ジェットの御面相にびっくりしたのか、女は大きな緑の瞳をまん丸にしていたが、すぐにそれを引っ込めると、とろけるような笑みをジェットに贈った。
 とはいえ、娼婦が送るような秋波とは、また違ったものだったが。

「あらぁ……本当のお客さんが来ちゃったわね」

 何処かしら謎めいた言葉をその女は口にし、スツールから滑るように降り立った。
 その流れるような動作に、年甲斐もなくジェットは魅了される。
 それほど女の仕草は様になっていたのだ。

「それじゃ、あたしは退散するわね。また、あとで」

 誰にともなくそう言うと、女はヒールの音を高く響かせて、ジェットの脇を風のようにすり抜けて扉の向こうへと消えていった。
 爽やかなフローラル系の香水の香りを微かに残して。
 そんな、残り香をジェットは楽しんだ。
 ――酒場はこうでなくちゃいけねぇよ……
 胸の中でだけ呟いて、ジェットはカウンターの真ん中に陣取った。

「いらっしゃいませ」

 ぼそり、という感じでバーテンダーが言った。
 ほとんど口を動かさずに喋ったような印象がある。
 ジェットの佇まいにも、ほとんど関心がないようだ。

「マーティニを」

 そうジェットが言い、ようやくバーテンダーに感情の反応が現れた。
 一瞬だけ、目が眇められた。
 確かにそうだろう。
 目の前の客の面は、とてもマーティニという御面相ではなかったからだ。
 せいぜいがとこ、ボイラーメーカー(バーボンのビール割り)という顔だった。
 しかし、酒は顔で呑むものではない。
 女と見まごうような優男がロンリコを嗜むかと思えば、プロレスラーのような男がビール一杯で出来上がることもある。
 バーテンダーの目の前の男も、また同じだった。
 一つ頷くと、バーテンダーはジンの瓶を持ち上げた。
 ジンとベルモット、凝った作りを披露するならばビターズやレモン・ピールも使うのだが、それは省略された。
 よほど、自分の腕に自信があるのだろう。
 単純なものほど、力量の差が出るのはいつの世でも同じことだ。
 軽くステアしたそれを冷やしたグラスに注ぎ、オリーブの実を一つ入れて、マーティニの出来上がりだ。
 目の前に差し出されたそれを、慎重な手つきでジェットはつまみ上げ、口に運んだ。
 引き締められた、清冽な味が口一杯に広がり、満足したようにジェットの口許が歪められた。
 無論、笑ったのだ。
 ――当たり、だったな……
 ジェットがこの店を選んだのは当然、偶然だった。
 この星に来ていたのは、捕まえた賞金首を換金するためだったし、一人で呑みに出るなどというのもジェットにしては珍しいことだったのだ。
 ――たまにゃ、一人で呑みたいときもあらぁな……
 同居人の増えたビバップ号は、ジェットにとってそれなりに居心地のいい場所ではあったが、男にとって必要な「一人になる」という時間がなくなってしまったのも、また事実だった。
 決して、それが嫌なわけではない。
 ただ、一人で旨い酒を呑む。
 そんな時間が、たまには欲しかっただけだった。

「俺にも、マーティニを」

 不意に声が響いた。
 カウンターのどんづき、壁際からの声だった。
 女にだけ気を取られていたようなジェットだったが、男が隅にいることには気づいていた。
 しかし、その声が意外と若いことに少々驚いたのだ。
 それにその声には、どこか憶えがあるような気がしたのだ。
 カウンターの隅っこで呑む奴なぞ、よほどの拗ね者か、或いは臑に傷持つ奴のどちらかだろう。
 だからジェットは僅かに首を傾げ、その闇を透かすようにして声の主の顔を覗き見た。
 明るいとは決して言えない照明のせいで表情までは判らないが、横顔にどこか見覚えがあったような気がする。
 しかし、記憶にある最近の手配書の顔とは一致しない。
 そして、声だ。
 男の声が、ジェットの記憶に小さな棘を突き立てて引っかかっていた。

「そんなに俺の顔が珍しいかい?」

 いつの間にやら、ジェットはまじまじと男の顔を眺めてしまっていた。

「す……すまん」

 思わずジェットは謝っていた。
 普段ならばこんなことはない。
 謝らない、というのではなく他人の面をまじまじと眺めてしまうということだ。
 しかし、男は鷹揚に手を振ると腰に手を当てて体ごと向き直った。

「久しぶりだな……ジェット・ブラック」

 男が自分の名を呼んだ。
 ぎくりとして、ジェットの動きが止まった。
 ぴしりと硝子の割れるような音が聞こえた気がした。
 足を踏み入れたときに感じたあの殺気は、これが原因だったのだろうか。
 そんなジェットの緊張感を露わにした姿を見て、男が苦笑を漏らした。

「つれねぇなぁ、俺だよ俺」

 それまで呑んでいた酒のグラスを手にして、男が近づいてくる。
 光量の乏しいランプに男の顔が半分ばかり浮き上がる。

「お……お前は……」

 確かにその顔は、臑に傷持つ人間だった。

「出所られたのか?」

 ようやくジェットが言った。
 男は顔を心持ち上に向けて、気障な笑いを浮かべた。

「ああ、辛抱強くいい子にしてたら、たったの三年で出してくれたぜ」

「ジョニー・ジョウ……か」

 ジェットがその名前を呼ぶと、男は満足げに微笑んだ。
 ジョニー・ジョウ。
 通称JJ。
 その道では名の通った強盗であり、四年前にジェットが捕縛した賞金首でもあった。

「お前には、稼がせて貰ったよなぁ」

 二杯目のマーティニを干しながら、ジェットが言った。
 空になったそれをカウンターに静かに置くと、柄の部分で折れていたそれはカウンタの上にころりと転がった。
 それを見てJJが嗤う。

「言うなよ、いまはただの一般市民だぜ」

「ヌケヌケと言ってくれる」

 JJの言葉にジェットは苦笑を浮かべていた。
 ジェットがJJで稼いだ賞金は実に高かった。
 通常の公的組織から掛けられた賞金とは別に、保険会社のかけた賞金が半端な額ではなかったからだ。
 この賞金がかけられる直前にJJはある物を盗み出していた。
 「紅い楯」と呼ばれるアステロイド・ルビーの逸品を火星の博物館からまんまと盗み出していたのだ。
 その水際だった手腕は犯罪界では現在でも語りぐさになっている。
 その後の、情けない捕まり方もおまけに付けての笑い話として、だったが。
 それを意識してのことだろう、JJは表情を引き締めながらジェットに言う。

「あんたが俺を捕まえられたのは、運だぜ、運」

「運も実力のうち、って言うぜ」

「そりゃ、そうなんだがな」

 あっけなく、JJは降参した。
 ジェットの言うことは、じつに的を得ていたからだった。
 それにJJはジェットに対して格別の遺恨があるわけでもなかった。
 自分を捕まえてくれたことには少々言ってやりたいこともあったが、これも互いの選んだ商売のせいだ。
 何をしたところで、商売敵という物はいつの世にも存在するのだから、こればかりはしかたがない。

「ところで……こんなところで、お前何やってんだ?」

 ジェットの問いに、心持ち後ろへと後ずさるような真似をしてJJは両手を腰のあたりでひらひらと振った。

「おおっと、駄目だぜジェット。いまの俺は賞金首じゃないんだ」

「馬鹿野郎、俺がそんな了見の狭い男に見えるか?」

 ぎろりとひとにらみ、ジェットが凄んでみせると、ふるふるとJJは首を振り、ニヤリとした笑いを片頬に張り付けた。

「ま、もっともあんたの考えてるとおりなんだけどな」

 JJの言葉に、ジェットは演技を消した鋭い視線を向ける。
 それをあっさり受け流してJJは肩を竦めた。

「おいおい「犯罪を未然に防ぐ」なんて野暮はいいっこなしだぜ」

 さすがにその言葉にジェットは二の句が継げなくなった。
 犯罪者が存在してくれるおかげで、自分は飯を喰っているのだから。
 それでも一言だけは言っておきたかった。

「一応、昔は警官だったんだがなぁ」

「そいつぁ……初耳だ」

 本当に驚いた顔をして、JJはジェットの迫力のある顔を見つめていた。
 思わずJJはジェットのことを見直していた。
 警官あがりに賞金稼ぎはなかなか務まらないからだ。
 なぜなら、染みついた警官のやり方というのはなかなか抜けないものだからだ。
 何人もの「凄腕の刑事」というのが賞金稼ぎに転向してはくたばっていった。自分の力と組織の力とを混同した馬鹿が多かったからだ。
 しかし……とJJは思う。
 この男は、警察に身を置いていた時からそれが判っていたのだろう。
 だから、こんな商売でも生きていられるのだ、と。

「……ところで、先刻の話の続きだが」

「しつこいなぁ、あんたも」

「これも性分でな。聞きかけた話は最後まで聞かなきゃ気がすまん」

「わーかったよ……また、仕事に戻るつもりなのさ」

「ほう……」

 さも驚いたような顔を作って、ジェットがわざとらしく驚いてみせる。

「……ま、詳しくは話すわけには行かないが、どうやったら「格好良く」襲えるかと思ってね。それを考えていたんだ」

 JJの言葉にジェットがカウンターに突っ伏した。

「そんなくだらねぇことを考えてたのか……お前は」

 ジェットの発した言葉に、JJは気障ったらしく片眉を持ち上げて見せ、人差し指を立てるとチッチッチッと舌打ちしながらそれを横に振った。

「重要なことなんだぜ、やっぱり何事も第一印象ってのが重要さ」

「そんなもんかね」

「そういうもんさ」

 二人揃って何とも言えない苦笑を浮かべ、それきり黙って杯を重ねた。
 その沈黙を破ったのはJJだった。

「しかし……ダンナとこんな風に酒が呑めるとは思ってみなかったなぁ」

「まったくだ……俺も捕まえた相手と肩を並べたのは初めてだ」

「あの頃より髪の毛も少なくなっちゃって」

「ほっとけ、馬鹿野郎」

 二人は同時にグラスを空けた。
 カウンターにほぼ同時に置かれたグラスを見て、JJがニヤリと得体の知れない嗤いを口許に浮かべる。
 突然JJがバーテンダーを呼んで、言った。

「一五対一で」

 ニヤリとジェットも笑う。

「あの時の意趣返しのつもりか? なら、俺は一六対一だ」

 二人の視線が絡んで、面白みのある色が二人の瞳に浮かぶ。
 過去を共有したものだけが放てる、それは火花だった。
 しばらくして二人の前に同じ形、しかし、宣言した通りに調合されたマーティニが並べられた。

「今度ばかりは、負けないぜ」

 それを手にし、掲げるようにしてJJは言い放つ。

「どうだか?」

 言葉を受けてジェットもそれを手にし、応えるようにJJに向けてグラスを傾けた。
 それを合図にしたように、二人は一気にグラスを干した。

 ……一時間後、カウンターの下に沈んだのは……


 案の定JJだった。

「ったく、だらしのねぇ……」

 そういったジェットも既に足許がおぼつかず、ようやくカウンターに絡まっているといった体だった。
 結局、ジンとベルモットの比率は際限なく低められ、挙げ句の果てには単なる酒の呑み比べと化してしまった。
 手当たり次第に店にある銘柄を注文し、酒棚の端から端までをほとんど二人で制覇したのだ。
 まあ、無理もない。

「い……幾らだ?」

 呂律の回りきらない口調で、ジェットがバーテンダーに尋ねる。
 しょうもない男二人の呑み比べを延々見せつけられたにも関わらず、バーテンダーの表情は一つとして変わらなかった。
 実に良心的な金額をバーテンダーは示し、ジェットはそれに満足してカードをバーテンダーに向かって滑らせる。

「おいJJ。そんなところで寝てると営業の邪魔になるぜ」

 床の上に長々と伸びたJJに勝ち誇ったような口調でジェットが言う。

「う……うるへぇ、てめぇでちゃんと歩けらぁ」

 返ってきた答えは的外れな物だったが、取り敢えず頭はしっかりしているらしい。

「お前の出所祝いと、現役復帰を祈って今日は奢ってやるよ」

 バーテンダーから返されたカードを指に挟み、酔った目でジェットがニタリと笑う。

「おほぉ……嬉しいこと言ってくれるねぇ……そいじゃ俺に賞金がかかったらまた、会いに来なよ」

 間抜けなことをぬかす酔漢に苦笑すると、ジェットはその巨躯をふらりとカウンターから離れさせた。

「またな……JJ」

「ああ、またな」

 ジェットはもう振り返らなかった。
 二度と会うような気がしなかったからだ。
 もしもJJの言う通り、彼が本当に仕事をする気ならば当局に尻尾を掴ませるようなドジは決して踏むまい。
 そして、もし賞金がかかるようなことになれば、自分よりも早く誰か別の賞金稼ぎがJJを何処かで捕まえることだろう。
 そんな予感があった。
 だからジェットはそれきり黙ったまま、扉の向こう側へと姿を消していった。
 その足音は、ゆっくりと、けれど確かな足取りで小さくなって行った。
 その音がすっかり耳に届かなくなったころ、JJがちらりとドアに視線を投げた。
 微かにきしむ音を立てて、再びドアが開いて先刻の美女がするりと体をドアの内側に身を滑り込ませていたからだった。
 彼女は怒ったような、呆れたような目をして、床の上に気持ち良さそうにひっくり返っているJJを見つめていた。
 彼女の背後のドアがしっかり閉められていることを確認したJJは、ひょいと足を振り上げた反動で床の上に立ち上がった。
 それはまるでジャックナイフのブレードが開かれた瞬間のように鋭く、美しい。
 JJの顔からはすっかり酔いの色は拭い去られていた。

「大丈夫ですか、ジョニー?」

 バーテンダーが心配そうに声をかける。
 先刻までの、能面のような無表情さがはげ落ちていた。
 頭を襲った痛みに顔をしかめながらもJJは手を振って、バーテンダーに答えた。

「なぁに、明日の仕事にゃ支障は出さないさ。俺も「プロ」だからな」

「何がプロよ! 呆れて物も言えないわ。おかげでスケジュールがめっちゃくちゃじゃないの」

 柳眉を逆立てて、彼女が怖い顔を作ってJJに詰め寄っていく。

「お……お……」

 唇が触れそうなくらいまで近づけられた花のかんばせの迫力に、JJは後ずさる。

「まあまあ、クリスさん。現場には予期しないアクシデントが付き物ですよ……ところでいったい今のは誰だったんです?」

 バーテンダーが年齢と仕事にふさわしい取りなしを見せ、クリスの一番訊ねたいであろうことを代わってJJに訊ねて見せた。
 怒りの矛先を反らされて不承不承ながらもクリスは手近なスツールに腰を下ろし、JJの返答を待った。

「前にしていた仕事の時に、俺をパクってくれた賞金稼ぎさ」

 そのJJの台詞にクリスとバーテンダーの目がまん丸くなった。
 バーテンダーの顎など、カウンターの上に落っこちてしまっていた。

「それじゃ……あの話は本当だったんですか!?」

「あんた本当にあんな物盗んでたの!」

 二人が同時に上げた声が、安普請の壁を震わせる。

「あれぇ、二人とも俺の話、信じてなかったの?」

 意外そうに、きょとんとした可愛らしい目でJJが二人に聞き返す。
 クリスは無言でJJを見つめていた。
 バーテンダーは天井を向いて嘆息していた。

「誰が信じるってんですか、あんな荒唐無稽な話。うちのチームにゃ、信じてる奴なんか誰もいましやせんぜ」

「そりゃ、残念だなぁ」

 JJは少しばかりの苦みの混じった笑みを口許に浮かべると、カウンターに置かれたままだった空のグラスをつまむ。

「なぁ、もう一杯、作ってくれないか。マーティニを。今度はレギュラーでさ」


 ふと気づくと、橋の上だった。
 いつの間にか巧みに誘導されてしまったのだろうか……
 今となってはどうでもいいことだ。
 最後の気筒が音を立てて、死んだ。
 橋の向こうには新市街の明かりが見える。
 しかし……
 ジョウはがっくりと肩を落とし、ステアリングに額を押しつけた。
 宵闇が覆い始めた海に向かって、強く吹く風に乗って物悲しいクラクションの音が響き渡った。

「クソッタレ!」

 JJは短く毒づくと、視界を遮ろうとするカーテンを手の甲で拭った。
 べったりと赤いものが掌についてきた。

「ちくしょう……」

 拭っても拭っても、視界の霞みが取れない。
 額から垂れる血のせいばかりではなかった。
 自分を支えるもの全てが、足許から抜け去っていくようだった。

「……クリス?」

 ようやくJJが、隣席に座る彼女に声をかけた。
 けれど、声は返されることがなかった。
 恐ろしく緩慢な動作でJJが目をやると、クリスはトミーガンをしっかりと抱いて眠っていた。
 眠っているだけのように見えた。
 その黒のウェディングドレスが、重く湿った色に見えさえしなければ。

「全部、なくしちまったな……」

 呟いて、JJは渾身の力を込めてドアを蹴り開けた。
 背後からサイレンの音が近づいてきていた。
 言うことを聞かない、重い体を無理矢理持ち上げ、JJは助手席側に回るとひしゃげたドアをやっとの思いで引き開けた。
 ずっしりと重たくなったクリスの体を肩に担ぎ、トミーガンを杖代わりにした。

「ちゃんと、ダイエットしたのかよ……」

 この期に及んでも、JJは物言わぬクリスに向かって軽口を叩いていた。
 ゆっくりと、欄干に向かってJJは歩き始める。
 その逃避行はJJに、象とワルツを踊るような徒労感を感じさせた。
 それが証拠にワンステップごとに、体中の力が抜けていく。
「動くな」
 嫌な言葉を耳元で囁かれたような気がして、JJはぎょっとして振り向いた。
 既に背後はパトカーと警官でひしめき合っていた。
 そんなことに気づかなかった、自分をJJは恨んだ。
 しかし彼の耳は、もうその役目を果たしてはいなかったのだ。
 目もそうだ。
 橋の上をぎっしり埋めたように見えるパトカーもそれほどの台数ではなかった。
 それでも、彼を捕まえるためになら十分な数だったが。

「銃を棄ててこっちに来い!」

 警官が拡声器越しに叫んだ。
 それにJJは笑顔で答えた。
 もう、何も聞こえなかったのだ。
 そして、JJはトミーガンを投げ捨てたりはせず、その銃口を警官達に向けた。


 炸裂する銃声だけが、海に向かって流れて、消えていった。


「まったく……あいつらと来た日にゃ」

 溜息と共にジェットはこぼした。
 賞金首をまとめて捕まえて、ほくほくの筈だったが……
 スパイクはさっさとどこかに消えてしまった。
 フェイに至っては言わずもがなだ。
 挙げ句の果てに二人は異口同音に捨て台詞を残していった。
「何か最近、地味な仕事が多くないか?」

「まったく、チマチマ稼いで何が楽しいのよ。銀行強盗の賞金なんてたかが知れてるのよ、こんなんじゃいつまで経っても貧乏が抜けないわよ」

 ――貧乏結構!
 ビバップ号を維持するのも、ただじゃない。
 毎日の食い扶持もある。
 ――そういう基本的なことがあいつらには欠落してるんだよなぁ……

「基本が大事だ、何事も基本がな」

 そんなことをぶつぶつと呟きながら、ジェットはネットの賞金首の情報をチェックし続けていた。
 しかし、検索する情報項目がどうにも偏りがちになっていた。
 確かに二人の言ったことは当たっていたのだ。
 ジェットはディスプレイから目を上げると、人差し指でぽりぽりと額を掻いた。

「どうにも……なぁ」

 やはり、気になって仕方がなかった。
 あれだけ堂々と言われてしまったのだ。
 捕まえてやらなきゃ失礼にあたるというもの。
 しかし、あれからふた月が経とうというのに、JJに賞金が掛けられたと言う話はついぞ出てこないままだった。
 無論、銀行強盗は毎日のように発生はしていたが、JJの関わりそうな類いのヤマは見当たらなかった。

「仕方ねぇか……」

 犯罪事象の検索を諦め、一息入れようとランダムパイロットに設定した途端、その画像がジェットの目に飛び込んできた。
 それはあまりにも印象的な緑色した瞳だった。

「む……?」

 茶でも入れようかと、腰を浮かせかけていたジェットは再び画面に見入った。
 ごつい指を繊細に動かして、そのチャンネルをフィックスする。
 それは新作の映画の宣伝らしかった。
 その監督なのだろう、インタビューが流れている。
 しかし、ジェットの目はその後ろに流れているプロモ用のプレビューに釘付けになっていた。
 黒のウェディングドレスを纏った美女の瞳に、何故か見覚えがあった。
 プレビューは次々と目まぐるしく、シーンを変えて行く。
 爆発炎上するパトカー。
 古風なクルマはフォード・フェアレーン。
 静かに進む、何処か「見覚えのある」バーの夜。
 二人組の「銀行強盗」!!
 そして……「あ奴」の顔が「どーいうわけ」か大写しになった。
 それに被さって、インタビュアーの声が割り込んでくる。

「……この映画は、主演でもある彼の原案が元になっているそうですね?」

「そうです、彼が刑務所に入っているときに書いた小説がベースになっています。もちろんそれは小説としてはとても売れないたぐいの物でしたが……」

 もはやジェットはそんなインタビューを聞いてなどいなかった。
 ジェットは、その巨体をおんぼろソファに埋め込むように投げ出した。
 まんまと一杯喰わされたのだ。
 ――なんてぇ奴だ……
 それを認めた瞬間、奇妙に晴れやかな気分に襲われて、ジェットは大口を開けて笑い出していた。
 そして、今度こそジェットは立ち上がると厨房へと姿を消した。
 しばらくして戻ってきたジェットの手には酒と肴が揃えられていた。
 どっかりとソファに腰を下ろしたジェットは映画チャンネルに接続し直し、目当ての映画を探し当てた。
 ――たまにゃ、こんな日もありか……
 秘蔵の酒の封を切りながら、昼日中から酒を呑むという贅沢を自分に許したことに苦笑を漏らす。
 自分以外誰もいないビバップ号の中、不意にジェットは自分一人の時間を得られたことに気づいていた。
 そして手許には酒も肴もあり、そのうえ面白そうな映画まであるのだ。
 これ以上の贅沢が望めようか?
 ジェットは一人ほくそ笑むとグラスに酒を注ぎ、本当に二度と会うことがなくなったであろう古い知り合いに向けて、そのグラスを傾ける。
 その彼が充実した時間を過ごさせてくれるであろうことに感謝しながら。

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