河井継之助・不可解なカリスマ

#01 嫌われ者の年譜

西暦河井継之助日本世界
1827 元旦に生まれる。おめでたい。元旦生まれの有名人は他に一休さんがいる。 異国船打払令の頃 ベートーベン没
1838 数え12才。学問武道を始める。頑固な子供で先生に嫌われた。王陽明にカブれる。 前年に大塩平八郎の乱。反動でこの年は静か インディアン・チェロキー族、白人に追われて大移動(アメリカ)
1841 15才。長岡藩校入学。やはり頑固で嫌われる。 天保の改革 アヘン戦争
(英国VS清1840〜1842)
1842 16才。元服秋義と名乗るがすぐやめる。 異国船打払い令を緩和 英国、アヘン戦争に勝つ
香港、1997年まで英国領と決定
1843 17才。突然ニワトリをさばき、皆をビビらせる。王陽明へのお供えらしい。 天保の改革やめる オコンネルのアイルランド自治運動...何?
1846 20才。藩からお呼びがかからず家でブラブラしている。写本が日課だが字は下手だった。 特にない 教皇ピウス9世即位...誰?
1850 24才。梛野スガ(16)と結婚。しかし依然、無職。余談だがスガ夫人は月代(さかやき:チョンマゲ頭のハゲの部分)を剃るのがうまかった。 やっぱり特にない ゴールドラッシュ
(アメリカ)
1851 25才。江戸留学を申請。藩にとってはいい厄介払い許可される。 またしても特にない 太平天国の乱(清)
1852 26才。江戸へ。佐久間象山に入門。頑固者同士でウマがあわず年末帰郷 ロシア船、下田に来航 皇帝ナポレオン3世即位
(フランス)
1853 27才。再び江戸へ。幕府の次席老中であった長岡藩主・牧野忠雅に自己アピール。好感触。 ペリー、浦賀に来航 クリミア戦争
(ロシアVSトルコ)
1854 28才。長岡藩評定方随役に就任。何かにつけ口出しするというポストらしい。 米・英・露と和親条約 共和党成立
(アメリカ)
1855 29才。評定方随役を辞職。口出ししすぎて評判が悪かった。 和親条約への反発気運 パリで万国博覧会
1856 30才。あまりに藩内で評判が悪いので諸国遍歴に出る。 アメリカ総領事ハリス来日 ハイネ没
1857 31才。長岡藩外様吟味役に就任。裁判官的な職。白黒はっきりつける性分が幸いし、初めて好評を拍す。 尊王攘夷思想の流行 セポイの反乱
(インド)
1858 32才。「意外とヤル」と思われはじめたところで辞職、江戸留学。また嫌われる。 安政の大獄 ムガル帝国滅亡
インド、イギリス領となる
1859 33才。山田方谷に入門するため備中松山(岡山県)へ。もう勝手にしろ、と長岡藩はアキれる。 武闘派志士が現われ始める ダーウィン『種の起源』
1860 34才。長岡へ戻る。ほとぼりがさめるまで家にこもる。 桜田門外の変、
大老井伊直弼暗殺
リンカーン、大統領当選
(アメリカ)
1861 35才。まだ家にいる。 皇女和宮、将軍家茂に降嫁 南北戦争
(アメリカ)
1862 36才。急展開。長岡藩主・牧野忠恭(当時、京都所司代)により京都に呼ばれる。京都は維新動乱の最前線。 坂下門外の変
生麦事件
鉄血宰相ビスマルク
(プロイセン)
1863 37才。牧野忠恭に、京都所司代をめさせる。長岡藩、武装独立・永世中立路線を打ち出す。 薩英戦争 ロンドンに地下鉄開通
日本はまだチョンマゲなのに...
1864 38才。牧野忠恭、幕府の老中を命じられるが、それもめさせる。独立路線一本。 第一次長州征伐 ジュネーブで赤十字同盟成立
1865 39才。長岡藩の郡奉行に就任。藩政改革に着手。あいかわらず敵は多いが味方も増えてきた。 第二次長州征伐 メンデルの遺伝の法則
1866 40才。中ノ口川御普請掛・御番頭格郡奉行兼帯に就任。長岡藩の財政を一気に豊かにした。 将軍家茂死亡
一橋慶喜、将軍となる
大西洋横断海底電線敷設(米英)
日本はまだまだチョンマゲ...
1867 41才。寄合組・御奉行格・御年寄役に就任。スピード出世。 大政奉還 アメリカ、ロシアよりアラスカ購入
1868 42才。御家老本職・御家老上席・軍事総督に就任。藩の実権のほとんどを握る。 鳥羽伏見の戦い〜戌辰戦争始まる キューバ反乱(アメリカ)
1868.2 ガトリング砲、ミニエー銃等の兵器購入
1868.3 新政府軍、北越到達。
1868.5 小千谷会談(河井継之助×新政府・岩村精一郎)...決裂。北越戦争始まる。
1868.5.19 新政府軍、長岡城占拠。
1868.7.25 長岡軍、長岡城奪回するも河井継之助負傷。
1868.7.29 新政府軍、長岡城再び占拠。長岡軍、会津へむけ敗走。
1868.8.2 長岡軍、只見村へ到着。
1868.8.16 長岡軍、塩沢到着。河井継之助、医師・矢沢宗益宅で死亡。

参考資料/童門冬二『小説河井継之助』、司馬遼太郎『峠』


#02 嫌われ者の年譜の解説

河井継之助は嫌われ者だったらしい。

子供のころから嫌われていたようだ。たしかに史料にみる少年時代のエピ
ソードはどれもコ生意気なものばかりで、なるほど嫌われるわ、と思う。
理屈っぽくてキレやすい。そんな、上岡龍太郎的キャラだったようだ。

年譜にもある通り、嫌われ者の彼は、しょっちゅう藩の上部に叱られては、
自宅謹慎していた。その自宅を彼は『蒼龍窟』と呼んだ。まだ蒼い龍が潜
む穴。

河井は自らを龍と考えていた。自分を非凡と思う人間はたいてい凡庸だっ
たりするのだが、河井の場合は違うようだ。これだけ嫌われる人間が平凡
であるはずがない。

長岡は、明治維新のとき幕府方についたから戌辰戦争に巻き込まれた、と
思っている人が多い。でも、実際は少し違う。長岡藩は、ちょっとヘンな
ことを考えていた。

『吉里吉里人』という井上ひさしの小説がある。東北の小さな村が日本から
独立するという物語だ。『沈黙の艦隊』という、かわぐちかいじの漫画があ
る。潜水艦が、やはり日本から独立してしまうという物語だ。

長岡藩は、これをやろうとした。

日本が幕府方と朝廷方に分かれて戦っていたとき、中立の道を長岡は行こう
とした。『吉里吉里人』も『沈黙の艦隊』も、その着想の斬新さが話題だっ
た。そんな、物語のなかでも奇抜といわれることを、百数十年前にやろうと
していたのだからびっくりである。

そして、この独立案を打ち出し、長岡藩を率いたのが河井継之助である。

誰も止めなかったのかよオイ、と思う。どうして嫌われ者河井の言いなりに
なったんだ、と。

昔の越後人は、保守的で寡黙で、目立つことを嫌う気質だった。もしかした
ら、その反動で、目立つことを恐れない人に弱かったのかもしれない。田中
角栄が寡黙でひかえめな人だったら、あれほどの支持を得たかどうか。

そして、河井の武装中立案は押し通された。結果的に維新政府にくみさない
藩とされ、長岡は朝敵となった。

私は河井が好きなので、これを書くのは少し胸が痛いのだが、運命の小千谷
会談(維新政府軍との最後の会談)に河井が行かなければ、長岡の中立案は
通ったかもしれない。もっと別の、穏和な、お坊さんみたいな人が行ってい
れば。

...そう、会談で、河井は嫌われたのだ。

新政府軍の代表が『敵』とみなしたのは、長岡ではなく河井継之助だった。
外交のときぐらい、愛想よくしろよ、河井...。