全体像 場所は小豆沢2−36、雪印乳業跡地の先。小豆沢と桐ヶ丘の区境。

画面左上部(剣の脇)紀年銘は「享」と想われる文字の下部は欠落してますが、「延享(江戸中期 1744〜1748)」でしょう。
年号の下に彫られる順番は年数か干支だが欠落し、「天」(年を表わす)が続き、その下に「正月吉日」とあります。

右上部から「奉」「供養」とあり「青面」の「青」が欠落したと思われ下に「金剛」と。

台座の部分、結構鮮明に文字が残っています。
右から「武州豊嶋郡」「地施主(地の上部欠落)」「川端縫殿助」

「願主(上部欠落)」「○本七良兵衛」
○の部分の文字「稲、揣のようにも見え判読できず」

「霊巌嶋北新 『ヨ大』の文字は霊の異体字 『新』の下に川の文字があるかは判読できず」
霊の上は「石」の文字の上部が欠落か、霊巌島銀町には江戸城竣工のため石の問屋街があった。
石工名か「酒井惣七」

「嶮田領」「小豆沢村」

余談ですが、庚申信仰と密接な関係にある「三尸九蟲」はあの回虫、サナダムシと関係があるらしい。
生物学的知識などなかった昔の人にとっては現実味を持った説だったことでしょう。
この寄生虫は体内にいるとき花粉症などと同じ抗体を作ったので花粉症やアトピー症など昔はなかったという。

『夫れ人生は皆形を父母に寄せ、穀の精を抱く。是を以て人の腹中には盡く三尸があって、人の大害を為す。
常に、庚申の夜、上って天帝に告げ、人の罪過を記し、人の生籍を絶つのである。』

以下は『和漢朗詠集』(平安時代成立)に表わされた守庚申。
「年(とし)長(た)けて毎(つね)に甲子(かふし)を推(お)すに労(らう)し、
夜(よる)寒(さむ)くして初(はじ)めて共(とも)に庚申(かうじん)を守(まも)る」
年長毎労推甲子。夜寒初共守庚申。
贈王山人 許渾

「己酉(きいう)年(とし)終(を)へて冬(ふゆ)の日(ひ)少(すくな)く、
庚申(かうしん)夜(よる)半(なかば)にして暁(あかつき)の光(ひかり)遅(おそ)し」
己酉年終冬日少。庚申夜半暁光遅。
庚申夜所懐 菅原道真

上の写真は庚申塔向かって右側面。下は左側面。横の壁との隙間は50cmあるかないかなので、ファインダーを覗かないで撮っています。
28mm相当でも全体が入らないので上から下へと右の写真からずらして撮っています。全カット参考になるかどうか。

路傍に置かれた庚申塔は道標の役目を持ったものが多く、くずし字で彫られて判読が難しい場合そのようなことを念頭において。
まず上から、簡単に読み取れるのは地名の「川口」、その上は「東」、東の右横は「西」のような。
左右の行の下の文字は「道」。川口と道の間の文字は「せんかふし」、推測で「ぜんこうじ 善光寺」か。
ここでいう西には「延命寺」があるのですが。

右の行から「お」「前」「三か之か?」「郷か江か?」「戸」「道」。
左、「あつ沢」の上の文字不明、その下は「むさし ハ」か不明。

「江戸道」江戸時代まで利用された道の通称。明治時代に入ってからは道幅など広げられ通称「明治道」と呼ばれた。

もどる