今週のメッセージ 2000.2.20

母の葬儀を終えて

先週のこのコラムでも記しましたように、去る2月9日、87年5ヵ月の地上生涯を終え、母は安らかに主の御許に召し上げられていきました。

母の葬儀は、一堂に会することなどなかなかなかった子ども・孫・曾孫たちが顔を合わせる機会を与えてくれました。御蔭でそれを契機に甥・姪たちとのEメールの交換が始まりました。

ある甥と姪は、葬式というものはただただ涙するものだとずっと思っていたけれども、今回のおばあちゃんの葬儀はとても温かく、涙は出ませんでしたとか、暗く沈んでしまうこともなく、穏やかな気持ちでさようならを言うことが出来ました、といった感想をメールで伝えてくれました。キリスト教の葬儀が参列者にこうした印象を与えるのも、その根底に復活の希望があるからだと思います。

ところで、新約聖書の福音書の中に以下のような個所があります。

「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」

(ヨハネ12:10,11)

このラザロという人物はどうやら病弱だったようで陰の薄い存在のように見えます。しかし、主イエスに敵対する者たちにとっては実に邪魔な存在で、殺害の対象とされるほどだったのです。そのわけは、彼が主イエス・キリストによる甦りの奇蹟に与ったからでした。人間の目には何も出来ない存在のように見えても、主イエスの御手の中に置かれると、とても重い存在となるのです。わたしには母の存在が、一堂に会する機会を与えてくれたり、孫たちにキリスト教葬儀の素晴らしさを印象づけてくれたりしたことで、このラザロと重なって見えたのでした。

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