今週のメッセージ 2000.2.27

葬儀について考えたこと

 

母の葬儀から2週間がたちました。あらためて「いた存在」が「いなくなる」ということは寂しさを禁じ得ないことを実感しています。病院に行けば会えるような錯覚からまだ抜け出ていません。

この度の葬儀でいくつかの立場を重ねて経験いたしました。まず生前故人の生活を支えていた家族としての立場、次に喪主としての立場、そして葬儀の司式者としての立場、さらに教会では田中菊太郎師を迎えてキリシタン殉教史劇『寒椿』上演伝道会を予定していましたので、その主催教会の牧師としての立場も重なりました。

最後の4番目の立場はともかくとして、遺族、喪主、司式者の立場を同時に経験したことを通じてあらためて葬儀のあり方について考えることができました。

最も強く感じたことは、葬儀の中心はやはり遺族に置かれるべきではないかということでした。今回は教会に予定された行事があったため、それと並行して葬儀をしなければならなかったこともあり、教会の方々には『寒椿』の方に主力を注いでもらうために、前夜式ならびに先に済ませることにした火葬を、故人の子どもたちと孫たちという本当に内々だけで行ないました。それがかえって親族にとってはよかったと思うのです。気兼ねなく心行くまで別れの時を過ごすことができたのです。

葬儀を営むとなると、遺族はもとより弔問に訪れる方々の立場、司式者ならびに会場となる教会の立場、葬儀社の立場等々、さまざまな立場があるわけですが、やはり主体は遺族に置かれるべきだと思うのです。しかし実際には、遺族は他の立場の方々に気遣いして非常に制約された、そして無理を強いられる過ごし方を余儀なくされるのではないでしょうか。

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