キリストの復活の事実性が重大な理由 先週は復活祭(イースター)に因み、「キリストの復活の事実性」について記しました。 ところで、なぜキリストの復活の事実か否かが問題になるのでしょうか。それが事実であろうとなかろうと、今の自分にはたいした問題ではないと考えられる向きもあろうかと思います。 その理由は、わたしたちの復活と関係しているからです。 新約聖書の中の「復活の章」と呼ばれる?コリント15章の20節に、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」、とあります。つまり、キリストの復活が先駆けとなることにより、後に続いての復活の道が開かれたというのです。 “復活なんてごめんだ。永遠に続くなんて思っただけでもぞっとする。適当なところで切り上げられるところに良さがあるんだ”、といわれる向きもおありでしょう。 同じく新約聖書の最初にある福音書の中に、復活問答が記されている個所(例えばルカ20:27~40)があります。そこで主イエスは、復活の世界は決してこの世の延長・拡大ではなく、全く次元を異にする世界だと語っています。 “人間は死すべきもの”というのが定めのようにいわれますが、他方、人間は永遠を思い、また愛する者との永遠の絆を求めることも事実です。そこにおいて「死」は、実に不条理な問題となります。しかしキリストの復活が、この死の不条理を超克する道を開いてくれたのです。 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(?コリント15:54) Topへ
今週のメッセージ 2000.4.30