「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 (新約聖書・ヨハネによる福音書9章3節) いきなり聖書のことばの引用で始まってしまいましたが、冒頭の聖句は主イエス・キリストのことばです。 ある時、主イエスとその一行が道を歩いていますと、生まれながらの盲人が物乞いをしているところに出くわしたのです。すると、弟子が主イエスに尋ねました、この人が生まれつき盲人となってしまったのは、彼が罪を犯したからですか、それとも彼の両親の罪のためですか、と。それに対する主イエスのコメントが上記のことばなのです。 もし仮に弟子の問いが当たっていたとしたらどうでしょう。その盲人にとって、自分の盲目は罪の報いというわけですから、苦しみは倍増するでしょう。両親の罪の結果などと言われては、もう絶望的です。 しかし、主イエスは、弟子の問いを打ち消すと共に、「神の業が現れるため」と仰せになりました。 その後、「神の業」が彼の上にどのように現わされたかというと、主イエスの奇蹟によってその目が見えるようになるのです。しかし、そこで目出度し、目出度しではありません。聖書はその後に多大のスペースを割いて、彼の魂の目の開眼を記すのです。彼は最初、主イエスをほとんど知りませんでした。しかしいろいろなやり取り、経緯の中で彼は主イエスを知る者とされるのです。それは以後の彼の人生に大変革をもたらしたはずです。 一見、不幸、災いとしか思えないことが、主イエスとの関わりの中で、思ってもみなかった祝福へと変えられていくのです。
今週のメッセージ 2000.7.23
神の業が現れるため