今週のメッセージ 2000.7.30

偶然と宿命と摂理について

先週のこと、教会員の娘さんが出産に際し、へその緒が胎児の首に二重に巻かれていたため急遽帝王切開となり、取り出したものの、赤ちゃんの呼吸が止まってしまっているのでお祈りして欲しいという緊急の電話が入ってきた。そこで、電話を受けた直後にお祈りし、さらにまた礼拝の中でも報告して出席者全員心を合わせて祈った。的確な診断に基づいて適切な処置がとられ、母子共に守られますように、と。

後で聞いたところによると、妊婦はある個人の産院に入院していたのだが、日曜日だったため院長は不在で、他の病院の医師が詰めていた。その医師は大きな総合病院の医師で、その病院は新生児の救急医療において特に充実している病院だった。その医師は直ぐに異変を察知して救急の手配をし、日曜日の朝だったことが幸いし、道路も空いていてすぐにその総合病院に到着、迅速な処置が取られ、赤ちゃんが取り出された時には呼吸が危機的状態であったが、適切な処置が手早く取られたため、母子共に守られ、現在は1週間で母子共無事退院出来る見通しだとのことである。

お祈りを依頼してきた教会員そしてその娘さんを初め、教会員一同、祈りに応えて下さった主に心から感謝をささげている次第である。

「摂理」という言葉がある。広辞苑では、「キリスト教その他の宗教で、神または精霊が人の利益を慮(おもんばか)って世の事すべてを導き治めること」と説明されている。しかし神学的には、「神が被造物を全体としてまた個別にご自身の目的に向かって保持し、統治される御業」を意味する。

物事が好都合に運んだ時、人は「摂理だ」と喜んだり、また「偶然だよ」と冷やかに評してみたり、逆に不幸、不遇に遭遇すると、「定め」「宿命」としてあきらめようとしたりする。しかし、神を信ずる者は、偶然や宿命ではなく、摂理を信じるのである。(新約聖書・ローマ8:28参照)