今週のメッセージ2000.10.8

救主と罪人の隔たり

 

キリスト教のシンボルと言えば、どなたもご存知の「十字架」です。なぜ「十字架」なのかと言えば、それは主イエス・キリストが十字架にかかられたからです。

それならば、イエス・キリストの十字架はキリスト教の中心。故にさぞかし聖書はキリストの十字架の場面を克明に描写しているに違いないと考えるのですが、実際は大分違います。いや、聖書は確かに十字架について詳細に語ってはいるのですが、キリストの身体的苦痛や十字架刑の酷さの描写となると、それは皆無です。

たとえば『ルカによる福音書』は次のように記しています。

「されこうべ」と呼ばれているところに来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。(23章33節)

あまりのあっけなさに唖然とするほどです。

しかし、イエスの十字架を取り巻く周辺の人々についてはより詳しく伝えています。ユダヤ最高法院の議員たちや死刑執行人のローマの兵士たち、そして民衆が嘲り叫びます、“救主なら自分で自分を救え!”

そのような彼らの為に主イエスは祈っています。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(同34節)

この両者の間にまさに天と地の隔たりがあります。それは取りも直さず、救主(神)と罪人との隔たりなのです。キリストは、まさに人間の神を神とも思わないその無知さと罪深さの赦しのために十字架にかかっておられるのです。それとも知らず人は罵声を浴びせています。しかしその者のために主イエスは執り成しの祈りを神にささげておられるのです。

この隔たりに気づくことが、隔たりを埋める唯一の道なのです。

 

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