今週のメッセージ 2001.4.29 

「見ないのに信じる人は、幸いである」 

先々週の復活祭の余韻を残して、今週もキリストの復活に関することを記してみます。

十字架の死から3日経ったあの週の初めの日、復活されたキリストが弟子たちに姿を現わされた時、トマスという弟子はその場にいませんでした。復活の主に会った弟子たちがそのことを告げると、トマスは言ったのです、その掌に釘跡を、脇腹に槍跡を、この指を差し入れて確かめてみなければ、とてもそんなことは信じられない、と。

それから1週間が経った同じく週の初めの日、今度はトマスも居合わせた弟子たちのところに復活の主が再び姿を現わされたのです。その時のトマスの反応はどうだったでしょう。指を差しいれて確かめたでしょうか。いいえ、彼の口をついて出た言葉は、「わたしの主、わたしの神よ」でした。そうです。トマスは復活の主と出会った瞬間、イエスを自分の主、また神として告白したのです。そのトマスにキリストが語りかけられた言葉が冒頭の「見ないのに信じる人は、幸いである」だったのです。その前には「わたしを見たから信じたのか」という言葉が置かれています。

この記事が収められた『ヨハネによる福音書』は紀元1世紀も終り頃書かれたと言われています。キリストの復活の出来事が起こってから70年程の月日が経っていました。復活のキリストを直に目撃した証人たちはほとんどこの世を去り、世代変わりが起こっていたのです。従って、この言葉が、2代目以降の人達に(わたしたちも含めて)語られているキリストの言葉と考えると、非常に興味深い言葉として響いてまいります。先週記しましたように、キリストの復活の事実を裏付けるものは結構あります。その上でキリストは言われます、「見ないのに信じる人は、幸いである」と。