今週のメッセージ2001.12.9

映画『親分はイエスさま』を観て思ったこと

先週の金曜日、(教界で)話題の映画『親分はイエスさま』を観ながら二、三のことを考えさせられた。そのひとつは、信仰が具体的な行為と結びついていることの大切さだ。

渡瀬恒彦扮する主人公が、ヤクザ家業から足を洗って人生をやり直すべく、クリスチャンの妻の祈りに支えられながら必死になってキリスト教にすがって行くのだが、彼はそれを手製の十字架を背負いながら、九州から北海道まで日本縦断する旅の実践をもって実現していく。

言うまでもなく手製の十字架の柱を背負って歩くという行為そのものに何か御利益があるというわけではない。十字架を背負って歩きながら、自分自身を見つめ、これまでの自分の生き方を反省し、罪を衆人の前で告白しながら新しい自分とその生を確立していくことの中にすばらしい意義があるわけである。確かにその行為の動機の中に、クリスチャンの妻からよくやったと誉めてもらいたいという気持ちが働いていたと、主人公が画面の中で正直に告白して面もあるのだが、それも含めた彼の十字架行進という行為は、間違いなく彼が立ち直るために有効なものとなったのである。

そこで考えさせられことなのだが、信仰というものは、抽象的理念や思索で留まっていてはいけない。何らかの具体的な行為と結びついていることが大切だ。そしてもちろん、その行為は正しい意味付けを持ち、それが意識される中で実践されなければならない。

最近しばしば見ることのあるテレビ映像の中で、イスラム教徒が身を伏す行為をもって礼拝する姿には、礼拝が具体的行為と結びついているという点で、学び取るべき大事なものがあるように思わされている。ただ読んだり、聞いたり、考えたりするだけでは、真の礼拝にはなり得ないと思う。