今週のメッセージ 2002.12.22

毎年、クリスマスに思うこと

「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(ルカ267

初めて教会に行ったのは、高校を卒業して上京し、1年間浪人生活を送った年の7月下旬でした。そして921日、当時都内で展開されていた宣教百周年記念クルセードにおいて入信決心を表明し、翌月の104日に洗礼を受けました。従って、わたしにとって教会でのクリスマスはこの年が最初でした。年が明け、1月から日曜学校の教師を仰せつかり、小学上級科の担当となりました。(牧師の立場にある今の自分には考えられないようなスピードでの新米信徒の起用でした。)

教会生活のスタートがそのような具合でしたので、クリスマスは当初からお客様然としてゆったり過ごすというより、迎える側に立って結構気忙しく過ごし、それが今日にまで続いているといった感じです。クリスマスは“クルシミマス”だと言う時、半分は本音でした。

しかし、冒頭の聖句が示す通り、神の御子がこの世にお生まれになった時、宿屋には泊まる場所もなく、飼い葉桶が揺り篭になったのです。また、新約聖書の中のフィリピ2:6〜8には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。毎年、クリスマスの気忙しさの中で、この主の生きざまを思い起しつつ、僕となって仕えて過ごすのが、クリスマスにふさわしい過ごし方なのだと自分に言い聞かせています。