人生最後まで担えるわざ

ちょうど一週間前の10日(日)夕728分、わたし達の教会が所属する日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の創立時からの指導者、弓山喜代馬先生が、1016ヵ月の地上生涯を終え、静かに主の御許に召されていかれた。

13日に前夜式、翌14日に告別式が執り行われた。その折、ご遺族を代表して娘さんの江草恵美子師がされたご挨拶の中に、感銘深く心に残った言葉があった。それは、弓山師が生前、“何も出来なくなって、ただベッドに横たわっているだけになっても担えるわざがある。他者の為に執り成しの祈りをすることだ”と言っておられたということである。

大分前のことだが、カトリック静岡教会が宣教再開100年記念の行事を催した時、曽野綾子氏の講演会があった。曽野氏は言われた、“自分ではもう何も出来ず、ただひたすら他人の世話をいただいて生きられる状態になっても、ただ一つだけ残されている働きがある。それは自分の死に様を見せることだ”と。

前者は、身体的機能は衰えても、精神的機能が健在な中で担えるわざと言える。それに対し後者は、その精神的機能も衰えて、ただ植物的に生命を保持している状態になっても担える働きということになろう。そしてこの両者が成立するためには、神を信じる信仰が土台としてあってことだと言わなければならない。信仰があって初めて祈れるものである。また神にあって人間の生き死にが肯定的に捉えられる素地があって初めて死に様を見せることにも肯定的意義を見出し得るのである。

「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。」

(新約聖書・ローマ14:8)