今週のメッセージ 2002.9.8

神の約束のことば――福

聖書は“堅苦しい倫理道徳的書”との先入観をお持ちの方は多いかも知れません。確かに手に取って開いてみると、イラスト無しで文字がびっしりとページ全体を占めています。加えて、これまで断片的に耳にしてきた知識は、“父母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、...右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい、敵を愛しなさい”等々となれば、堅苦しい書、倫理道徳の書、と思われても無理もないかも知れません。

しかし聖書は基本的に“神の約束のことばの書”です。旧約聖書、新約聖書の「約」は“約束”を意味しています。そしてその約束のことばは、基本的に人間にとって“福音”なのです。

聖書を“倫理道徳の書”とみなす時、意外なことばに出くわします。筆者が今朝読んだ中に以下のような個所がありました。

「ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らず積み上げる。主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。」(旧約聖書・詩編39:78a)

実に虚無的です。しかし、それの後に以下のことばが続きます。

「わたしはあなたを待ち望みます。」(同8b)

「あなた」とは主(神)を指しています。実に聖書には神から人への語りかけがあり、また、人から神への語りかけもあります。そうした中で人は神の福音である約束のことばに接します。それは人間の生の根幹を基礎付けると共に、確かな希望の光を射し込ませるのです。

故に、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(新約聖書・マタイ4:4と言われるのです。