今週のメッセージ 2003.1.19

成人するとは

先週の月曜日(13日)は「成人の日」でした。当日の『朝日』の社説――“はたちになった、禁煙だ”――には思わず笑ってしまいました。

しかし、もちろん内容は冗談めかしたものではなく、自分と社会との関係を真剣に考え、自立した個人が互いに支え合って、自由で公正で温かい社会を創ることを目指すための提言でした。

言うまでもなく、二十歳になったら自動的に成人するのではありません。また、自由に酒が飲め、たばこが吸えるのが成人でもないのです。

成人するとは、人と成る、即ち、人間として成長・成熟していくことがその実質でしょう。

社説の指摘は、法に触れさえしなければ何をしてもかまわないとか、自分のからだなのだから、喫煙により健康を害そうがなにしようが自分の自由、と考えるのではなく、もっと他者との関わりも考え、周りの人のことも思い遣る人間となることが成人の実質、というものでした。

ところで、新約聖書に次のような記述があります。

「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝にまさる富と考えました。」(ヘブライ11:24−26)

モーセとは、昔イスラエルの民がエジプトを脱出した時のリーダーです。

このことばは、他者との関わりを考えると共に、それに先立ち、神との関わりを考え、神のみこころを土台として、他者のことまた物事の正しい価値判断ができる、そこにこそ成人としての具体的実質があるのだということを示しています。