今週のメッセージ 2003.2.2

いわゆる“禁断の木の実”について

喉頭のことを俗に“喉仏”といいますが、英語では“アダムのりんご”と呼ばれるようです。その由来は、アダムが神の御命令に背いて“禁断の木の実(りんご)”を食べた時、神に見つかり驚いた拍子にその半分が喉につかえ、あのような膨らみが男性の喉に出来てしまったということのようです。これはまったくの俗説で、聖書的根拠はありません。第一、“禁断の木の実”がりんごなどとは聖書のどこにも見当たらないことです。

ところで、そのいわゆる“禁断の木の実”は聖書の中では「善悪の知識の木」の実(創世記217)と呼ばれています。聖書を読み始めてから長い間、なぜ神は「善悪の知識の木」の実を食べることを禁じられたのだろうと不思議でした。善悪の知識を持つことは良いことではないか、と単純に思ったわけです。しかし、今は次のように考えています。

そもそも善悪の判断基準はどこから来るのだろうかと考えます。とかく法律からと考えがちですが、法律は時代と共に変わりますし、また場所により異なります。日本では車は左ですが、アメリカでは右です。

善悪の規準は実は神からやって来るのです。神が善とされることが善であり、神が悪とされることが悪なのです。「善悪の知識の木」に関する禁令はそのことを象徴的に示しているのだと思います。

その禁を破って人間がその実を食べてしまった時から、人間は神を差し置いて、自分自身の中に善悪の判断の物差を持つ性癖を帯びてしまったのです。それを神は良しとされず、人をエデンの園から追放されたのです。

神のかたちにかたどられたとは言え、やはり人間は神によって造られた存在です。その神に従う歩みの中にこそ、実は真の自由があるのです。

「真理はあなたたちを自由にする。」(新約聖書・ヨハネ8:32)