今週のメッセージ 2003.3.30

家庭でしか教えられないもの

目下春休みの時期、子どもたちは宿題のない束の間の休みをエンジョイし、他方、親御さん達は一日中家にいる子どもたちに、少々辟易している向きもあるかも知れません。

“私の実感的教育論”の副題がついた曽野綾子氏の『二十一世紀への手紙』で氏は、「家庭でしかおしえることのできないものは差し当たり二つある」とし、ひとつは「敬語」、もう一つは「どのような人間に理想を見出すか、という基本理念」と述べています。また、「どのような人間をも超える神の存在が意識にないと、人間は『偉い人』をやたらに崇めたり、その人に取り入ったりしたくなる」とも書いています。そして締め括りの部分では、「どのような子供にしたいか、ということは、家庭の決めることだ」と言い、「家庭が捨身でそれに対抗すれば、どんな教育でもできる」と言い切っています。(対抗の相手である「それ」は、文中では教科書や教師を指している。)

旧約聖書の箴言という書の最初の方に、「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな。それらは頭に戴く優雅な冠。首にかける飾りとなる。」(1:8,9とあります。箴言の「箴」という字は鍼灸のハリを意味します。昔は竹製だったので竹冠がついているのでしょう。要するに“人生のツボを突いている言葉”とでも言えましょうか。家庭の教育力の低下が取り沙汰される今日、子どもに対しそのような躾をしているだろうかと、ハッとさせられる言葉です。

ところで、キリスト教会では、どこの教会でも毎日曜日、子ども向けのプログラムを持っています。日曜日の朝、親子で連れ立って教会に行かれることは、きっとすばらしい恵みに与れることとお勧めいたします。