今週のメッセージ 2003.7.13

信仰の根拠について

 

聖書の中に登場する人物で、後に「信仰の父」と呼ばれるようになったアブラハムという人がいます。彼は紀元前2000年頃の人なのですが、ある時神から、愛妻サラとの間に生まれたたった一人の息子イサクを“焼き尽くすささげもの”として祭壇にささげよとの命令を受けたのです。

以前から彼は、地上のすべての氏族が彼によって祝福に与る、いわば祝福の源となること、そのために子孫を星の数の如く、浜辺の砂の数の如く増やすとの神の約束を得ていました。しかし、独り息子のイサクを祭壇にささげることになれば、子孫増加はおろか存続の可能性もなくなり、従って、祝福の源となるとの約束もそこで頓挫することになってしまいます。

彼はどうしたでしょうか。なんと神の命令に従い、独り子イサクを祭壇にささげたのです。否、ささげようとして、手に持った刃物でイサクを屠ろうとした時、神から制止され、代わって後ろの木の茂みに角を引っ掛けて動けなくなっていた一匹の雄羊がささげられることになったのでした。

アブラハムの行為はまさに“信仰の極致”と言っても過言ではありません。聖書は、その際のアブラハムの心境を、「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」(新約聖書・ヘブライ11:19)と解説しています。

ここに聖書が教える信仰というものを知る手掛かりがあります。即ち、信仰というものは、根拠もなくただ闇雲にただ思い込むことではなく、先立って語られている神のことばを信じて行動すること、それが信仰の始まりだということです。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」  (新約聖書・ローマ10:17)