今週のメッセージ 2003.8.17

平和追求の困難さ

 

一昨日は第58回目の終戦記念日でした。そこでテレビ番組でもそれに因んだものが組まれ、NHKでは夜、『核の時代に生きる人間の記録』と言う番組を放映していました。その中で、長崎で被爆され、生涯を賭して核廃絶のために闘っておられる方のことがレポートされていました。

ある時渡米され、国連の壇上から、被爆された当時のご自分の上半身のカラー写真を提示しながら、核の悲惨さと廃絶を訴え、最後に、“ノー・モア・ナガサキ!ノー・モア・ヒロシマ!ノー・モア・ウォー!”と悲痛な叫びをもって締めくくっておられました。

その方が、また別の所でアメリカの方に個別に核廃絶を訴えるシーンがありました。その時、相手のアメリカの方は先の戦争で身内の方が戦死されたようで、地面に線で墓を描き、もう墓の中だけれども、あなたは生きてそのように訴えが出来るのだからまだ益しだ、という意味の反論を受けていました。それを見ながら、あらためて平和を追求する難しさ、そして戦争には一方的に被害者であり、加害者であるということはないこと、それが戦争なのだ、ということを強く思わされた次第した。

ところで聖書の中に、「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」(イザヤ11:6−8)とあり、来るべき全平和の光景を描いています。

いかにしてそのような平和が実現を見るのでしょう。それは、「主を知る知識が地に満ちるからである」(同9節、協会訳)と言われています。

主イエス・キリストを知ることの重要さがここにあるのです!