今週のメッセージ 2003.12.21 あがないとして、自分の命を与えるため
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」 (新約聖書・ピリピ2:6)
「...人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである......。」
(同・マタイ20:28)
本日は、大方の教会ではクリスマス礼拝が献げられている日曜日です。 いきなり聖書のみことばの引用で始めましたが、冒頭の聖句は、キリスト降誕がいかなる出来事であり、そこにいかなる目的があったかが示されています。 キリストの降誕は、神が御位を捨て、ご自身を虚しくして僕の姿となってこの世にお生まれになられたことであり、それは、わたしたちを死と滅びから贖い出すために、ご自身の命を与えることを目的とされたことであったというのです。 一週間前の朝日新聞の「朝日求人」というコラムで、京セラ並びに第二電電の設立者で知られる稲盛和夫氏が、「利他」の心を説いていました。人生も世の中も絶えず変化し、また情報が溢れ返っている中で、人を支えるのはその人なりの哲学、生きていく上での座標軸。揺らぐことのない座標軸を持て、と勧めていました。氏自身は「利他」の心においてそれを見出しておられるわけです。 キリストはすべての他者を利する(救う)為に、神の御位を捨てて人となられたのです。このキリストとその救い、そしてその生き様の中にこそ、わたしたち人間のありようの座標軸とその原点があるのです。
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