今週のメッセージ 2004.2.22

神の器に見る適材適所

聖書の中には神に用いられたさまざまの人物が登場します。その中で、その生い立ちと担った使命を考える時、最も興味深い人物を挙げるならば、旧約ではモーセ、新約ではパウロ、の二人です。

モーセは、エジプト王の断種政策の危機の中で、姉の気転により、実母の乳房を吸いながらヘブル人の家庭で育ち、長じてはエジプト王女の子として、「エジプト人のあらゆる教育を受け」(使徒7:22)て成長していきました。

こうしたモーセの生い立ちは、やがてヘブル人のリーダーとして、エジプト王を向こうに回しながら、同胞のエジプト脱出を敢行する上で欠くことの出来ない資質が培われるのに役立ったと思われます。

他方パウロは、ディアスポラ(離散民)のユダヤ人としてキリキヤのタルソで生まれ育ちました。タルソは、アテネ、アレキサンドリヤと並ぶ当時の三大学問都市の一つでした。つまり彼は、当時のヘレニズム文化の最高のものkを身につけて育ったのです。しかし同時に、高名なラビ、ガマリエルの門下生として、律法について厳しい薫陶を受けて成長しました。

パウロのこうした生い立ちは、キリストの福音がユダヤという特定の民族の枠を超えて世界に広がる為に、神が用いられる器として欠くことのできない素地を彼の内に培ったのです。

しかし、神が用いたのはモーセやパウロのような人物ばかりではありません。ペテロやヨハネといったガリラヤ湖の一介の漁師に過ぎなかった「無学な普通の人」(使徒4:13)も用いられました。主イエスのガリラヤ伝道のお働きにおいてはみ心に適う人材だったのでしょう。神は適材適所に人を用いられるのです。あなたも神が適材とされる適所が必ずあるはずです。