今週のメッセージ 2004.3.14

神を礼拝するということ

 

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(新約聖書・ローマ12:1)

 

先週、イスラエルの民がエジプトを脱出するきっかけとなった「主(神)に犠牲をささげる」こと、即ち、「主(神)に礼拝をささげる」ことについて記しました。

エジプト王は、モーセの荒れ野で礼拝をささげることへの許可の求めに対し、なかなか許そうとはしませんでした。そこで神は、エジプト全土に次々と災いを下されたのです。結果的に十の災いが下り、やっとイスラエルの民はエジプト脱出出来たのでした。

そこに至るまでのモーセとエジプト王の遣り取りをみますと、王はモーセに妥協を求めています。何も国の外でなく、国の中でしたらよいではないか、を手始めに、行くなら女、子どもは置いて男だけで行ったらよい、とか、さらには、妻子は連れて行ってもよいが家畜は残しておけ、といった具合です。

しかしモーセは、エジプト王の妥協の誘いには応ぜず、神の指示に従ったのです。もし彼が妥協していたなら、エジプト脱出の道は開かれなかったでしょう。

この辺りに神を礼拝することの本質が示唆されているように思います。神を礼拝するとは、ただ教会に行き、座席に座り、賛美歌を歌い、説教に耳を傾け、いくらかの献金を献げる、といったことではないのです。何よりも神の言葉に聴くことによって、自分の生きる目的や方向を定め、更には自らの生の変革を決断していくこと、そこに礼拝の本質があるのです。