今週のメッセージ 2004.4.18

信仰は聞くことから始まる

 

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書20:29)

主イエスの復活を記念したイースターからちょうど一週間がたちました。

新約聖書の福音書の中に、主イエスの復活からちょうど一週間たった時のことが記されています。冒頭の聖句は、その折、主イエスがトマスという弟子に語っておられる言葉です。トマスは、主イエスが復活されたその日、弟子達の前にお姿を現された時、その場に居合わせませんでした。そのため、主の復活など信じられるものかと言い張ったのでした。それから一週間後、今度はトマスも居合わせたところに主は姿を現されたのです。すると彼は即座に信じる者となったのです。そのトマスに向かって主が上記の言葉を語られたわけです。

“百聞は一見に如かず”といった諺がありますから、わたしたちは「見る」ことが最も確かと考えがちです。しかし、信仰に関してはそうではないようです。『ルカに寄る福音書』の16章に、主イエスが語られた「ラザロと金持ち」の話しがあります。その中で、死後、陰府の炎の中で悶え苦しむことになってしまった金持ちが、同じ轍を踏むことがないように、天国で憩うラザロを生き返らせて地上に遣わし、自分の兄弟たちに警告して欲しいと頼みます。すると返ってきた返事は、彼らには聖書がある。それに聞くが良い、というものでした。金持ちは納得せず、それでは不十分です。死者から甦った者が警告するのが一番です、と食い下がります。すると、もし、聖書に聞こうとしないなら、たとえ死から甦って来る者があっても、その言うことを聞きはしない、との返事が返って来たのでした。

信仰は、「見る」ことによるのではなく、「聞く」ことによるのです。