今週のメッセージ 2004.5.2

主が共におられることの証し

 

果たして、神はわたしと共にいて下さり、わたしを守り導いて下さっておられるのだろうか?これは、信仰生活におけるわたしたちの最大の問いでしょう。

旧約聖書の最初の方にある「出エジプト記」「民数記」「申命記」といった書には、イスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンに辿り着くまでの40年間に渡る荒れ野の旅の様子が記されています。その中でイスラエルの民は、試練に遭遇するたびに、果たして神は自分達と共におられるのだろうか、ならばなぜこのようなことが、と再三再四、リーダーのモーセに食ってかかったり、神を試してみたりしています。

荒れ野の旅も終りに近づき、ヨルダン川の向うに約束の地カナンを眺望できるモアブの平野まで来た時、モーセは40年間を回顧しながらイスラエルの民に神からのメッセージを語っています。その中に、「あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記616という主の教えがあります。

後に、主イエスさまが、4040夜の断食の末、サタンの誘惑に遭われた時、サタンが主イエスを神殿の頂上に立たせ、ここから飛び降り、神が守って下さるかどうか試してみろ、と誘いました。すると主イエスは、この申命記616の言葉を引用し、サタンの誘いを退けられたのです。

神が共にいて下さるかどうか、神が守り導いて下さるかどうか、は試して立証されるものではないのです。主イエスさまの生き方に示されているように、神のみ心、それが示されているみ言葉に対し、自分の存在と生の全重量を賭けて信じ従うことにより、それに伴う祝福と守りまた導きを得てはじめて証しされるものなのです。