今週のメッセージ 2004.5.9

話題の“パッション”を観て

一昨日、メル・ギブソンが12年もの歳月をかけて構想を練り、約27億円もの私財を投じて製作したという話題の映画“パッション”を観ました。

ご存知の方も多いと思いますが、イエス・キリストの十字架の苦難を真正面から描いた映画です。

わたしはかねがね、キリストの十字架が語られる時、その肉体的苦痛が強調されることが多いのに対して、何の罪も犯さなかった神の御子が、極悪人として極刑に処せられて、父なる神から見捨てられていく、そのことの方がもっと苦痛なことであったのでは、と考えていました。従って、これでもか、これでもかと言わんばかりの鞭打ち、太い柱が組まれ十字架を背負わされての刑場までの悲惨な道行き、そして両手のひらに太い金属製の杭を打ち込まれる磔の場面など、ある種の違和感を覚えました。

しかし、同時に十字架刑の肉体に与える苦痛が想像を絶するものであることの認識もあらたにされた次第でした。

併せて、人間の罪深さに戦慄を覚えると共に、なぜか最近報道されている米軍によるイラク人へのショッキングな虐待と重なってしまいました。しかし、そうした罪の問題は他人事ではなく、自分の中にも同じような罪を潜み持っているのだとあらためて思わされた次第でした。

メル・ギブソン監督が最も訴えたかったのは、キリストが身代わりとなってわれらの罪を背負って十字架にかかられたことにより、われらの罪の赦しの道を開かれたということでしょう。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書53:5)のです。故に、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4:12)