今週のメッセージ 2004.6.27

「十戒」――“十の言葉”

前々回、前回と2回にわたりモーセの「十戒」について触れましたが、そもそも「十戒」と訳されている言葉の原義は“十の言葉”という意味です。「十戒」は、まさに“十の言葉”で神がわたしたちにどのように振舞うことを望んでおられるかを示しているものです。

旧約聖書によりますと、この「十戒」は2枚の石の板に刻まれ、それは聖所の奥の至聖所に安置されていた契約の箱と呼ばれる箱の中に納められていました。つまり、最も聖なる場所に置かれていた聖なる箱の中身は“言葉”だったわけです。

このことは、キリスト教を理解する上で非常に象徴的なことと言えます。実に、キリスト教と言葉とは切っても切り離せない関係にあります。なぜなら、イエス・キリストは“言(ことば)が人となった方”として紹介されています(ヨハネ1:14)。聖書は“書かれた神の言葉”と言われます。また、説教は“語られる神の言葉”と言われています。“言葉”はまさにキリスト教を特徴付けるものなのです。

イエス・キリストは言われています、「命を与えるのは、“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6:63)と。また聖書とご自身との関係については、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(同5:39)と言われています。

言葉が氾濫している現代です。だからこそ、キリストに、聖書に、教会で語られる説教に、傾聴したいと思います。人は、パンだけでなく、神の言葉で生きる者(マタイ4:4)だからです。