今週のメッセージ 2004.9.19

なぜ信仰が求められるのか

“信じるなら、救われる”とはキリスト教の専売特許のようなフレーズです。そのことを告げる聖書の個所の一つを挙げるとするならば、次のような聖句があります。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙10:9)

「公に言い表す」こと(告白)と「心で信じる」こと(信仰)とは別個のことではなく、一つのことの裏と表です。

同様に、「イエスは主である」ということと「神がイエスを死者の中から復活させられた」ということも、表裏一体です。「イエスは主である」と言うのは最も簡潔な信仰告白であり、イエスの復活はその信仰の根拠となるものだからです。

今から約2000年前、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事により神の救いの御業は「すでに」成就したのです。そしてこの事実は、現時点では信仰によってしか認識・体験できないことなのです。しかし、やがてこの事実が誰の目にも明らかにされる時がやってきます。その時こそ、神の救いの御業の完成のときです。従ってこの時は、現時点では「いまだ」到来していません。

わたしたちは、この「すでに」成就したが、その完成は「いまだ」先に待たなければならないその間にいるのです。信じることが求められているのはその故なのです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(新約聖書・ヘブライ人への手紙11:1)