今週のメッセージ 2005.1.30

聖書を手にして50

 

聖書に触れるようになってから50年ほどになります。最初は無味乾燥で退屈な本程度にしか感じませんでしたが、入信前後から変化が生じ、神の語りかけとして心に響いて来るようになり、今や日々紐解く書になっています。何度読んでも、その都度魂への新鮮な響きを覚えます。

福音書の中でお会いする主イエス様も、意地悪なお方のように思ったこともありました。それは、ルカ福音書の中の『善きサマリア人』(10:25~37)の記事においてです。一人の律法の専門家がイエスに対して、“何をしたら永遠の命が得られるでしょうか”と尋ねたことが発端となり遣り取りが展開するのですが、その中でイエスは2回にわたり、“その通り行いなさい。そうすれば命が得られる”と答えられます。行えないことは先刻ご承知なのに意地悪な、と思ったわけです。

また逆に、主イエス様は甘いな、と思ったりしたこともありました。ヨハネ福音書の中の『姦淫の女』(8:1~11)の話しにおいてです。律法の定めでは石打ちの刑に処せられることになっていました。敵対者達が、その罪の女を出汁にしてイエスを陥れようと謀ったのですが、イエスに論駁されてその場を去り、イエスと女の二人だけになった時、“あなたを罪に定めないからもういいよ。行きなさい”と放免されるのです。何かご自分だけ“いい人”になっておられるような甘さを感じたのです。

しかし、いずれも浅はかな誤解でした。『善きサマリア人』のイエス様は十字架にかかるべくエルサレムに向かう途上にあったのです。律法の専門家の罪に対する無知の罪を背負い、身代わりとなって十字架につくご覚悟をお持ちなのでした。また、姦淫の女の放免も、ご自分がその罪を負うご覚悟をお持ちの中での放免だったのです。