今週野メッセージ 2005.9.25

「自分の目に正しいとすることを行って」生きる危うさ

 

「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(旧約聖書・士師記21:25)

いきなり聖句の引用を以って始めてしまいましたが、これは旧約聖書の中の士師記という書の最後に記されていることばです。

前々回まで3週ほど連続して旧約聖書に登場するヨシュアという人物について触れました。彼はあの“エジプト脱出”(エクソドス)や“十戒”で知られるモーセの後継者でしたが、このヨシュアの後、サムエルという人物が出て来るまで、イスラエル全体を統率するリーダーが不在でした。士師記という書は、その当時のイスラエルの民の様子を伝えています。因みに「士師」とは、その時代、ある地域の民や部族に危機的事態が生じた時、それを解決するべく神が遣わされた戦闘指導者あるいは救済者・解放者のことです。

その頃のイスラエルの一番の問題点は、「自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して」(2:12)いたことで、その結果、性懲りもなく同じ過ちを繰り返していました。即ち、神に対する背信、それに対する神の怒りのさばき、民の呻き、士師による救済、というパターンを繰り返していたのです。

冒頭の聖句はそんな時代のイスラエルの本質をずばり言い表しているものです。「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」生き方は、畏れ敬うべき方を見失い、従うべきその御言葉を蔑ろにする生き方に他なりません。それに対して聖書は、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7と語り、「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」(コヘレト12:13と断言しています。