今週のメッセージ 2005.10.23

恵みの受け方

 

これだけのものを頂いたのだから、この位のお返しをしなければと考えます。また、これだけのご利益を求めるからには、この程度のお礼を用意しなければと思ったりします。それはほとんど世間の常識ともなっています。その為わたしたちはどうしても神の恵みを受けることが下手なのです。

旧約聖書の士師記の中に、自分が頭となって戦った戦に勝利した御礼に、自分の愛する一人娘を犠牲の献げ物としなければならなかったエフタという人が出てきます。決して神が予め勝利に導く見返りに一人娘を要求されたわけではありません。言わばエフタが勝手にそのことを自分から誓約してしまったのです。健気にも娘は、お父さんが神さまの前にそのことを約したのだから、わたしは犠牲になりますといって自ら焼き尽くす献げ物となり、エフタも涙を飲んで誓約を実行したのでした。

他方、同じ旧約聖書の創世記の中に、アブラハムという人が、自分の愛する一人息子を同じ焼き尽くす献げ物として献げた(正確には献げようとした)出来事が出てきます。この場合は、それは予め神が命じられたことであり、神は直前でそれを止められたのでした。そこには神がアブラハムを試す意図が働いていたのでした。

神は決してご自身の恵みに対する見返りとして、わたしたちに重い犠牲を要求されるお方ではありません。反対に、ご自身が愛する独り子を犠牲にしてまでわたしたちに恵みを施そうとされているのです。わたしたちはただ喜び感謝してそれを受ければ良いのです。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(新約聖書・ローマの信徒への手紙3:23、24)