今週野メッセージ 2005.12.18

神の御業のくすしさ

 

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」

(旧約聖書・伝道の書3:11a

新約聖書の第5番目の書は使徒言行録と呼ばれ、十字架と復活を以って成し遂げられたキリストの救いの御業が、地の果てに向かって宣べ伝えられて行く様子を伝えています。それを見て行く時、神のなされることのくすしさを覚えずにはいられません。

エルサレムで起ったキリストの十字架の死と三日目の復活による福音が、エルサレムという枠を越えてサマリアへと広がっていったのは、なんとクリスチャン迫害に因っているのです。迫害の難を逃れて地方へ散って行ったクリスチャンたちは、行った先で福音を証ししたからです。

ステファノという人が殉教の死を遂げますが、青年サウロ(後の使徒パウロ)は、ステファノに石を投げつけていた者たちの上着の番をしていました。ステファノの殉教の様子が後のパウロの回心に何らかの影響を与えたに違いありません。

使徒パウロは3回の伝道旅行を敢行した後、さらにローマに福音を伝えようと行動を起こします。しかし、命を狙われたり、監禁されたりと、なかなか思うように事が運びません。しかし、監禁がかえってパウロを暗殺者の毒牙から守り、不毛に見えた裁判は、かえってパウロをして総督や王などの主立った人たちに福音を証しする機会となって行ったのです。そして、なかなか埒が明きそうになかった為、パウロはローマ皇帝に上訴することを決意するのですが、そのことがローマへの道を開いたのです。

一見、妨害とマイナスにしか見えないことが、かえってプラスへと代えられて行きました。真に神の御業のすしさとしか言いようがありません。