今週のメッセージ 2006.7.16

続・実行不可能に見える教えについて

 

先々週に引き続き、『平地の説教』(ルカ620~49)の中から、実行不可能に見える教えについて記してみたいと思います。

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。...赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。...」(37節)とあります。

表面的に捉えると、自分が裁かれない為の、また自分が赦される為の取引的手段として相手を裁かない、赦す、といった具合になりかねません。しかし、もちろん、そのような自己保身術として教えられているものではありません。人間関係だけを視野に入れて考えると正しく理解できません。

この“人を裁くな”段落の締め括りの部分に、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか。」(41節)とあるように、わたしたちは自分の目にある丸太は棚上げにして、他者の目のおが屑を問題にして非難したり、裁いたりしがちです。

『マタイによる福音書』の18章に、「『仲間を赦さない家来』のたとえ」の記事(21~35節)があります。王様から1万タラントンもの負債を赦してもらった家来が、その帰途、百デナリオンの貸しのある仲間に出会い、返済を迫ったが返してもらえなかったのでその仲間を牢に入れてしまったのです。しかし、それを聞き知った王は大いに怒り、話しを元に戻し、1万タラントンを返すまでその家来を投獄してしまったというのです。1タラントンは5千デナリオンに相当しますから、その家来は、自分が赦してもらった金額のわずか50万分の1の貸しを赦せなかったのです。

実を言うと、わたしたちは主イエスの十字架の贖いにより、測り知れない罪の負債を赦していただいているのです。ならば、他者をも赦すべきではないかと、なかなか他者を赦せないわたしたちにイエスは仰せなのです。