今週のメッセージ 2006.7.30

人の人たる所以

 

旧約聖書中の代表的な人物のひとりにダビデという人がいます。彼は王座に着くまでに、何度も命の危機に見舞われことがありました。彼は、イスラエルがペリシテ軍と戦って大変苦戦していた時に、敵の代表戦士と一騎打ちをし、見事に勝利を勝ち取ったことから、サウル王の部下として取り立てられました。しかし、やがて王座を脅かす者としてサウル王から命を狙われるようになってしまったのです。王と二人だけでいた時、王から槍で突かれそうになったことが二度。また、王から敵ペリシテを利用して殺されそうになったり、刺客を送られたこともありました。

こうした状況に追い込まれると、“殺すか、殺されるかだ”と考え、隙があったら相手の命を奪おうと考えても不思議はないのですが、ダビデは、サウル王の刃を逃れて逃亡生活に明け暮れる中、サウル王の命を取ろうと思えば取れる、絶好のチャンスが2度もあったのですが、彼はそうしませんでした。彼の部下が、急き立てても、彼は部下を抑えたのです。

このダビデの寛容さはどこから来ていたのでしょうか?それは、彼が部下を抑えた時の彼の言葉の中にそのわけを知る手がかりがあります。彼は言ったのです、「わたしの主人に手をかけることはしない。主が油注がれた方だ。」(サムエル記上24:11)

油注ぎとは、王座に着く時に与る儀式なのですが、主(神)によって立てられた方に手をかけることをダビデは潔しとしなかったのです。ここに神の秩序の中に生きる人間のあるべき姿を見ます。そしてこの神の御心に従うことこそ人の人たる所以なのです。

「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」

(旧約聖書・コヘレトの言葉12:12)