今週のメッセージ 2006.10.1

神の忍耐

 

旧約聖書の中の『サムエル記下』6章に、ダビデ王が聖なる神の箱をエルサレムに搬送した記事が出てきます。途中、箱を乗せた車を牽引していた牛が、何かのはずみでよろめきます。すると車を御していたウザという人がとっさに手を伸ばして箱を押さえたのです。そのために彼は神に打たれ、死んでしまいました。聖なるものに触れたために神に罰せられたのです。この聖なる神の箱は、紆余曲折を経て、長い間、ウズの父、アビナダブの家に置かれていました。そのことがウズの心の中に、神の聖に対する“狎れ”を生じさせてしまった結果だと思われます。

ところで、しかし現代には、そのような神の刑罰が下って命を落とすようなことはないではないか。神の刑罰など迷信だ。そもそも神などいないのだ、などと考えたり、言ったりする現代人は少なくないようです。

本当にそうなのでしょうか?

新約聖書中に以下のような言葉があります。

「主は......一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたの為に忍耐しておられるのです。」(新約聖書・ペトロの手紙 二3:9)

また十字架上で救い主イエス・キリストは、次のような祈りを献げられました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23:34)

聖なる神は今や、その聖の故に罪人を罰し、滅ぼすのではなく、その御愛の故に、救い主イエス・キリストを遣わされて、われらを赦し、救わんとされているのです。そこにおいて神は忍耐しておられるというのです。それに狎れてしまわないで、神の忍耐に誠実に応えて生きたいものです。