今週のメッセージ 2007.2.18

荘厳(おごそか)なものへの感覚

 

先日、愛媛県の郡部にある町で伝道されているH牧師からお手紙をいただきました。内容は、本日の午後、同教会で行われる洗礼式の案内でした。同教会は、昨秋、開拓10周年を迎えられた教会です。折々お送りいただく印刷物を通して、血反吐を吐くような厳しい闘いの中で働きが進められていることを感じさせる教会です。

洗礼を受けられるのは、H牧師の片腕として開拓の苦労を共に担ってこられた教会員T姉の高1と中2のお嬢さんです。開拓が始まった頃は、6歳と4歳位だったお子さんがこの10年を経ての洗礼に導かれたわけです。

その中にA.シュヴァイツァーの以下のような文章の抜粋が同封されていました。

「日曜日の午後の礼拝が、わたしはいちばん好きだった。

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わたしは厳かなものへの感覚、静けさと精神の集中への欲求とを、幼少のころに出席した礼拝によって身につけた。わたしはそれなしには自分の生を考えることができない。だからわたしは、子どもをおとなの礼拝に出席させるのは物心つくまではさせるべきでない、とする意見には賛成できない。大切なのは、理解することではなく、 荘厳 ( おごそか ) なものを体験することである。おとなの敬虔なすがたを見、おとなの敬虔な祈りに心打たれること、これが子どもにとって大切なのだ。」

「お話しがわかる」こともひとつの大切な要素ですが、荘厳(おごそか)な雰囲気の中で神に礼拝が献げられている、その中に身を置くことにより荘厳(おごそか)な感覚を身につけることも大切なことなのです。“アフリカの聖者”シュヴァイツァーもそうした中から生まれたのです。