今週のメッセージ 2008.5.18

“行(ぎょう)による悟り”と“信仰による救い”

 

先月、立ち寄ったお店で手に取った中日新聞の中に感銘深いことばを目にしました。それは次のようなことばです。

「人間は雨を降らすことも、そよ風を吹かすこともできない。ただ一つできることは、人を思いやること。...

ある僧侶の方が、命がけの難行苦行を成し遂げる中で得た悟りの言葉です。それだけに重みがあり深い感銘を覚えた次第でした。味わい深い言葉だと思います。

しかし、その実行となると、他者への思いやりより自分のことが先に立ってしまう自己中心の罪深さに当面し、自分の弱さ、罪深さを突きつけられます。

使徒パウロは、ローマ7章で、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のかあらだから、わたしを救ってくれるだろうか」(24節)と慨嘆しています。

“行(ぎょう)による悟り”は自分自身の中のものです。しかし、“救い”は神との関係の問題であり、その関係の中で与えられるものです。罪故に壊れてしまっている神との関係を、キリストの十字架の贖いとそれを信じる信仰によって回復され、そこに真の救いが与えられていくのです。

故に「ガラテヤの信徒への手紙」の中に次のように記されています。

人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(2:16)