今週のメッセージ 2008.7.

荒れ野で叫ぶ声

 

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」(新約聖書・ヨハネ1:23)

 

前回は、ギュツラフというドイツ生まれの宣教師が訳した最初の和訳聖書について触れました。そして、彼が1837年にシンガポールで刊行した『ヨハネによる福音書』の書き出しにおいて、マリアの胎を通して地上に誕生される以前のイエス・キリストが、「ハジマリニ カシコイモノゴザル」と紹介されていることを記しました。

この「カシコイモノ」は現行訳では「言」と訳され“ことば”と読みます。あるいは「ことば」と訳されているものもあります。

ところで、冒頭の聖句はそのイエス・キリストを世に紹介する使命を帯びてこの世に遣わされた「洗礼者ヨハネ」という人の自己紹介の言葉です。彼は自身を「荒れ野で叫ぶ声」と紹介しています。聖書自体はそうした意図を込めて語ってはいないと思いますが、キリストを「言(ことば)」として示し、ヨハネを「声」としているところに興味深さを覚えます。「言」は「声」が伝える内容そのものです。「声」は「言」を音声化したものです。ヨハネはイエス・キリストを自分の生の声を以って証ししたのです。

しかし最近、言葉が内実を失い単なる音声と化しているのを感じます。“オッパッピー”とか“ポッポッポポッポー”等々。内実を失った言葉は単なる音声と化し、奇妙なアクションを伴った極めて感覚的ものとなっています。

今こそ「言」を証しする生の「声」が必要です。その声を聞き、「言」を受け入れて行く時、人間の言葉に内実が回復されて行くのです。現代という荒れ野で叫ぶ声こそ今最も必要とされているものなのです。