今週のメッセージ  2008.8.3

名は体をあらわす

 

昔から“名は体をあらわす”といわれます。わたしの名前は“幸いを広める”と書いて“幸広”といいます。果たして名は体をあらわしているだろうかと時々自問いたしますが、確信は全くありません。

しかし、神の場合はまさにその通りです。旧約聖書・出エジプト記3:14に自己紹介されている神の御名は、前々回記しましたように、その自存性、独一性、永遠性を示し、全能で、あらゆる事物の根源であり、約束に対して誠実であられるという本質を表しているといわれます。その神は、まずイスラエルの民をエジプトの奴隷の縄目から解放し、約束の父と蜜の滴る地へと導き入れることによってその真実を示されました。

主イエス・キリストは、前回記しましたように神の聖なる御名をご自身に当てはめられ、その真実なことを、われらの救いのために担われた十字架の死、三日目の復活、そして昇天を以ってそのお言葉通り、“上げられた”(新約聖書・ヨハネ8:28)ことを通して証しされました。

66巻から成る聖書の最後の書は『ヨハネの黙示録』ですが、その中にも神の御名が出てきます。それは、「今おられ、かつておられ、やがて来るべき方」(1:4,8)というものです。「やがて来るべき方」という部分は、「やがて来るであろう方」となるのが自然な形なのですが、それが敢えて「やがて来るべき方」となっていて主イエス・キリストの再臨と結びついた表現となっています。そしてこの書の最後、またそれは聖書の最後でもあるのですが、主の再臨の約束とそれへの待望、そして祝福の祈りで終わっています。再臨こそ、信じ従った者には勝利と救いの完成の時、拒み従わなかった者にはさばきと永遠の滅びの時となるのです。そして主の御名自体がそれを示唆しているとは、まさに名は体をあらわしているわけです。