今週のメッセージ 2008.12.14

 

神を知るには

 

 いわゆる循環論法と呼ばれる論法があります。たとえば、“神は存在する。”“なぜ?”“それは聖書に書いてあるから。”“なぜ聖書に書いてあると信用できるの?”“聖書は神が著者だから。”、といった類がそれです。

 これは結論と理由がぐるぐる循環しているだけで正しい論法ではないと一般的には看做されます。

 入信して間もない頃、似たような論法に接したことがあります。それは、“聖書は神の言葉である。”“なぜなら、聖書にそう書かれているから。”、というものです。その時、聖書について論証するのに、聖書の中に論拠を求めるのはおかしい、と思った記憶があります。

 しかし、信仰生活を送る中で、こと神に関しては、一般の論理はあてはまらないことも知るようになりました。それは、神という存在は自立、自存で、その存在は他の如何なるものにも依っていない故に、一見、循環論法に見えることが神に関しては成立するということです。

 『ヨハネによる福音書』の5章に、主イエスは、ご自身が父なる神から遣わされた存在であることを、父なる神から成し遂げるように与えられた“業”と“父なる神の言葉”(聖書)とにその証が見出せるといわれています。一般的には循環論法と断じられそうです。

 しかし、神の御子に関する決定的な証しは、やはり神に依るしかないのです。そしてそれは“信じる”ということによって“知る”道が開かれていくのです。

 「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(新約聖書・Tコリント1:21)