今週のメッセージ 2009.2.15

キリスト教の醍醐味

 

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

(新約聖書・ヨハネの黙示録3:20)

新約聖書の最初に置かれている四つの福音書は、人となってこの地上に来られたイエス・キリストを証ししています。すなわち、そのご降誕から宣教活動、十字架の死、三日目の復活そして昇天までのキリストを伝えています。(但し、2番目のマルコによる福音書は降誕記事をカットして宣教活動から、またヨハネによる福音書は降誕以前の永遠のはじめからおられたキリストを「ことば」として紹介しているといった多少の違いはありますが。)つまり、人格的存在としてのキリストを描いているわけです。

従って、特にヨハネによる福音書などは、キリストの救い主としてのさまざまな側面を紹介するに当たっては、むしろ非人格化してつたえています。たとえば、「わたしは命のパンである」(6:48)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは羊の門である」(10:7)などがそれです。そこで、キリスト教信仰は、このイエス・キリストという人格的存在との個人的交わりがその本質であることを覚えることが大切です。

キリストが昇天された後も、この人格的存在としてキリスト御自身が登場している個所があります。ひとつは、使徒言行録に出て来る迫害者サウルに対する天上のキリストの語りかけです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(9:4)。そして冒頭に記した聖句もそれです。

目には見えなくとも、今も生きて働いておられるキリストと、日々交わりを持ちながら生きるところに、キリスト教信仰の醍醐味があるのです。