今週のメッセージ 2009.10.11

「聞く」ということの大切さ

去る10/9付の『朝日』で天声人語氏が、翌10日の目の愛護デーに因み、耳と目を比較しながら「耳」について興味深いことを記していました。

それは、寺田寅彦のことば、“目は、いつでも思ったときにすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう”を引用し、なかなか示唆に富んでいるとした上で、近年、音をめぐるトラブルが増えていることを指摘しています。そして八戸工業大学大学院の橋本典久教授の造語、“煩音(はんおん)”を紹介し、最近のトラブルは騒音よりむしろ煩音らしいと述べています。さらに教授の、現代人は“音に限らず、煩わしさを受ける力が減退しているのでは”との見方を受け、“誰しも、耳を閉じられぬ同士である。ここはいま一歩の気配りと、いま一歩の寛容で歩み寄るのが知恵だろう”として、“それを教えようと、神は耳を、かく作りたもうたのかも知れない”と結んでいます。

ところで聖書の中に、次のような言葉があります。

「イエスは...言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネによる福音書20:29)

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙10:17)

主イエスは、信じることにおいて「見る」よりも「聞く」ことが大切だと語られます。そこで聖書は、信仰はキリストの言葉を聞くことによって内に引き起こされるものだと教えます。神は、この「聞く」ことの大切さの故に耳をかく造りたもうたのではないでしょうか。