今週のメッセージ 2010.3.7

存在そのものの重さ

 

「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書12:10,11)

『ヨハネによる福音書』の12章には、兄弟姉妹関係にあったマルタ、マリアそしてラザロの三人が描かれています。そのうちマルタとマリアの姉妹は『ルカによる福音書』の10章にも登場しています。

姉のマルタは、ヨハネでは給仕し、ルカではもてなしのために忙しくしている姿が描かれています。動的なタイプの人間のようです。

妹のマリアは、ルカでは主イエスの足元に座ってその語られることばに耳を傾け、ヨハネでは、高価な香油を主の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐっています。どちらかというと静的なタイプの感じです。

それに対して兄弟ラザロはというと、これといったことは何もしていません。「ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」(12:2)とヨハネにあるだけです。

にもかかわらす、冒頭の聖句が告げるように、敵対者たちはラザロを殺そうと謀っていたのです。それは、ラザロのために多くの人々が祭司長たちから離れ、イエスを信じるようになったからだというのです。

何にもせず、至って影の薄い存在にしか見えないラザロがどうして?

その理由は、一つ前の11章に描かれています。ラザロは一度は死に、埋葬されたのでした。しかし、死後4日も経って遺体は死臭を放っていたにもかかわらず、主イエスによって甦らされたのでした。

あかしとは、その人の才能や功績ではなく、与った主の恵みをその存在そのものを以って示すことなのです。