今週のメッセージ 2011.1.30

礼拝を献げるということ

 

旧約聖書の最初の書「創世記」22章に、アブラハムがわが子イサクを祭壇に献げるという有名な出来事が記されています。アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる最大の所以ともなっている出来事です。

故に、この記事は信仰という観点から読まれることが多いかと思います。事実、新約聖書中の「ヘブライ人への手紙」においても、「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクをささげました」(11:17)といわれています。

しかし、この出来事は礼拝という観点から見るとき、礼拝を献げるとはどういうことかについて実にその本質を告げていると言うことができます。

アブラハムにとってイサクは、100歳のとき、しかも不妊と思われていて90歳にもなっていた妻サラを通して授かった、かけがえのない独り子であり世継でした。ところがある時、神はアブラハムにイサクを焼き尽くす献げ物として祭壇に献げよと命じられたのです。

なんとアブラハムはこの神の命令に従うのです。イサクを縛って祭壇に乗せ、屠るべく刃物を振り下ろそうとした時、神がそれを止め、イサクに代えて、木の茂みに角をとられて身動きがとれなくなっていた雄羊を彼に与えたのでした。その時神はアブラハムに言われます。「あなたが神を畏れる者であることが、今、わかった....。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(12節)

言うまでもなく、神はイサクの命が欲しかったわけではありません。神を畏れ敬うが故に、最も大切なものをも惜しまずささげるアブラハムの心を神は求められたのです。ここに礼拝を献げるということの本質が示されているのです。真心から神に礼拝をささげましょう!