今週のメッセージ 2011.2.27

主イエスによる病のいやし

 

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

(マタイ8:17b)

弟子ペトロの姑をはじめ、多くの病人を主イエスがいやされた出来事を記したあと、その締め括りとして旧約聖書のイザヤ書53:4が引用されています(マタイ8:14-17)。マタイは、主イエスこそ、預言者イザヤが来るべきメシアであると告げているのです。そこに、主イエスの病のいやしの御業の単なる病のいやし以上の意味が込められています。

引用されているイザヤ53章は、メシアの、特に贖いの御業が語られています。それは、冒頭の聖句が示すように病のいやしであり、また、下記の聖句が示すように贖罪です。そしてそれらはメシアの(十字架の)死によることが示唆されています。

 わたしの僕は、多くの人が正しいとされるために/彼らの罪を自ら負った。(11節b)

 多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。(12節b)

ところで、キリストの十字架による贖罪の完成は、使徒信条における「罪の赦し」につづく「からだのよみがえり」の時こそその時です。また、同じくキリストの十字架の贖いにその根源を持つ病のいやしもその完成は、「もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21:4)と宣言される時、すなわち「からだのよみがえり」の時です。もちろん、祈っていやされることもあります。しかし、いやされなかったからといって敗北感に打ちひしがれることはないのです。いやしは、他方においては「からだのよみがえり」までの広がりの中で捉えることが大切です。