今週のメッセージ 2011.4.17 十字架の意味
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(新約聖書・Tペトロ2:24)
この聖句の主語は、その前の22節の冒頭にある「この方」、即ち、イエス・キリストです。
この言葉がペトロによって記されたものであることを思うとき、実に深遠なものを感じます。そこには、キリストの十字架の出来事に際し、ペトロの犯した大失敗と、その赦しに関する彼の思いが込められているからです。
今日からキリスト教会の暦では「受難週」と呼ばれる特別な1週間が始まっています。それはキリストの十字架の死と葬りの1週間を記念するものです。
ペトロは、実はこの週の木曜日に、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(マタイ22:33)と大見得を切ったのですが、その舌の根も乾かないうちに、主との関係を三度にわたって否定する大失態を演じてしまったのです。
逮捕・連行されたキリストが、その翌日には十字架に磔になってしまったのですが、その当座はペトロのみならず他の弟子たちも、キリストの十字架の死の持つ意味を全く解することが出来ませんでした。
しかし、その後のキリストの復活、昇天、そして聖霊降臨の出来事に接し、ペトロは十字架の意味を悟ったのです。冒頭の聖句はそのペトロの悟りが披瀝され、かつ、わたしたちにそれの持つ福音を告げているのです。
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