今週のメッセージ 2011.8.7

 

教会で話しを聞いていると、「罪」という言葉が耳障りで仕方がない。人を罪人呼ばわりして不愉快だ。そうした感想を抱かれる方も少なくありません。

また日本語で「罪」と聞くと、どうしても犯罪のイメージが伴ってしまいます。しかし、英語では“sin”という語が用いられ、英和辞典で調べると「道徳上、宗教上の罪」と説明されています。他方、犯罪を意味する語には“crime”という別の語が用いられ、「法律上の罪」とあり、両者は明確に区別されています。

さらに、新約聖書の原語(ギリシャ語)では元々「的外れ」という意味を持つ語が用いられています。すなわち、聖書でいわれる「罪」とは「的外れ」のことなのです。

では、どのような意味での「的外れ」なのでしょうか。

旧約聖書の律法の基盤となっているものに「十戒」があります。前半が対神に関する戒め、後半は対人に関する戒めです。そして前半の第1番目は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:3、申命記6:14)とあり、神ならぬものを神とすることこそ最大の的外れなのです。

ところで“sin”についてですが、真ん中に“i”が入っているのは「罪」の視点から見るとき実に象徴的です。なぜなら“i”は“I”、すなわち英語で「わたし」を意味する語に通じているからです。「罪」の本質はまさに「“わたし”中心」すなわち「自己中心」なのです。また、英語で「わたし」を意味する“I”は、文章の中ではどこにあっても常に大文字です。これも自己中心に通じているようで象徴的な感じがします。(英語を母国語とする方からは顰蹙を買いそうですが...)

造られた存在である人間が神を差し置いて神の如く振る舞い、相対的な者に過ぎない人間が絶対者の如く振舞う。この「自己中心」「自己絶対化」こそ、的外れに他ならず、実に「罪」の本質なのです。