今週のメッセージ 2011.10.2

「アーメン」について

 

宗教改革で知られるM・ルターが、「教会史上の最大の殉教者は『主の祈り』である」といったと伝えられています。その意味は、あまりにも親しいのでつい事も無げに唱えてしまう。しかし、そのたびに『主の祈り』を殉教させているというのです。

ならば、「アーメン」も同じではないかと思わされることがあります。自ら祈るとき、また他者の祈りに対して「アーメン」と唱えます。その際、半ば機械的に唱えられていないかと思うのです。

聖書中をみると、旧約聖書の中では、神の言葉に対してその確認、同意、さらにはその言葉を己が身に引き受けるという決意表明として使われ、また、頌栄に対して個々人または共同体の応答として唱えられています。

新約聖書に入ると、主イエスはこの言葉を前置きとして発言され、そのあとに続いて語られる言葉が真実であることを強調されています。ヨハネ福音書では、主イエスは「アーメン」を重複して用いて発言されています。

最も注目すべきは、ヨハネ黙示録3:14で、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」といった具合に「アーメン」が人格化され、主イエスを指す言葉となっていることです。実に神の約束の真実を確証し、さらにその真実を実現される方として主イエスが指し示されているのです。

して見ると、この言葉を唱えるとき、わたしたちの心の姿勢がいかにあるべきかがおのずと明らかになって来るのです。

「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます。」(Uコリント1:20)