今週のメッセージ 2011.10.30

主イエスの罪の赦しの土台にあるもの

 

福音書をみていると、主イエスが罪の赦しの宣言の場面に出会います。

たとえば『マタイによる福音書』の9章では、中風の人が仲間により担架に乗せられて主イエスのもとに運ばれて来るのですが、その中風の男に向かって主イエスは、「あなたの罪は赦される」(2節)と宣言されています。

また『ヨハネによる福音書』の8章でも、姦淫の現場で捕らえられた女性が主イエスのもとに連れて来られるのですが、やがて主イエスはこの女に向かって、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)と言われて女を放免しています。

主イエスは神の御子であられる故、そうする権限を持っておられるとしてそれ以上深くは考えないかも知れません。またその寛大な宣言をされる時、ただ主イエスの寛大さを覚えるだけでそれ以上は思わないかも知れません。

しかし、それは違います。『フィリピの信徒への手紙』の2章に次のように記されています。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(6-8節)

そうです。キリストの罪の赦しの宣言の土台には、へりくだりと父なる神に対する従順、そして罪人の罪を身代わりとなって背負い、あの十字架において、神の刑罰としての死をその身に引き受けるという大いなる犠牲を土台とした上での罪の赦しの宣言であることを覚えなければなりません。